山口宗永:概要

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概要・歴史・観光・見所
山口宗永(全昌寺)

【 概 要 】−山口宗永(玄蕃)は天正14年(1545)、山口光広の子供として生まれました。豊臣秀吉に仕え、慶長2年(1597)から秀吉の甥で小早川家の養子となった小早川秀秋筑後30万石の付家老に就任します。何らかな理由で秀秋との間に不和が生じ豊臣秀吉から伏見城に呼び出され弁明が求められています。宗永から見れば子供より年齢が若く、豊臣家の将来の一翼を担う秀秋に対して大きな期待を込め厳しく助言したつもりが、秀秋にとっては口煩く感じ行き違いが生じたようです。

朝鮮出兵(慶長の役)の際には総大将となった秀秋の補佐として朝鮮に従軍していますが、小早川軍は梁山城の普請や蔚山倭城から加藤清正を救出など行ったものの大きな戦果を挙げるどころか、総大将としての機能が果たせなかったようで早々に帰国命令が出されています。帰国後は山口宗永の指揮により小早川軍を700人規模の4部隊に編制し、交替で朝鮮半島の西生浦に駐屯させ豊臣軍の後詰の任を任されています。

慶長3年(1598)、秀秋は朝鮮出兵(慶長の役)の不手際から北ノ庄城(福井県福井市)15万石に減封となり、宗永は大聖寺城(石川県加賀市)6万3千石が与えられています(明確な資料が無い為、秀秋の減封は懲罰的なものではなく朝鮮出兵で重要な役割を持つ筑後から一時退避させ、最初から終戦後に戻す予定だったとの説もあります)。これは秀秋が30万7千石から15万石に減封され大身の家臣を抱え切れなくなった為で、奇しくも宗永は独立した大名に取り立てられています。

その後、秀秋は旧領の筑前名島30万7千石へ復権しましたが山口宗永は大聖寺城に留まり名実共に独立し秀吉の直臣となっています。山口宗永は大聖寺城の城下外れに鎮座している菅生石部神社に対して社領の安堵をい、菩提寺となる全昌寺を城下に迎える等、領内の経営に尽力しています(菅生石部神社には山口宗永が発給した年貢除地の印判状や社禄書が残されています。社禄書は加賀市に残る山口玄蕃の書状として貴重な事から昭和34年に加賀市指定文化財に指定されています)。

山口宗永(玄蕃)は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍方として行動し、東軍方の前田利長率いる2万5千の兵を大聖寺城で迎え撃つ事になりました。当初、前田軍は丹羽長重が守る小松城(石川県小松市)に進軍するかに見えましたが、組み易いと思ったのか標的を大聖寺城の宗永に変更、知らせを聞いた宗永は激怒し大聖寺城に守りを固めると同時に嫡男修弘に命じ前田軍迎撃の為に布陣させます。

大聖寺城の攻防戦は熾烈を極め、特に前田軍は城兵約1千2百名に攻めあぐね8百人以上の犠牲者を出したとされ、苦虫をかみ締める結果となりました。しかし、城兵にも疲れが見え始め青木一矩や丹羽長重の援軍の見込みがなくなると宗永も降伏の意思を伝えましたが聞き入れられず前田軍の総攻撃により落城、宗永・修弘父子も袂で自刃して果て福田橋の袂に葬られたと伝えられています。全昌寺(加賀市)は山口家の菩提寺で、全昌寺境内には明治23年(1890)に後裔により建立された山口宗永(玄蕃)・修弘の供養塔があります。

大聖寺城:写真
山口宗永と縁がある大聖寺城 山口宗永と縁がある大聖寺城 山口宗永と縁がある大聖寺城 山口宗永と縁がある大聖寺城
菅生石部神社:写真
山口宗永と縁がある菅生石部神社石垣と植栽 山口宗永と縁がある菅生石部神社石段から見上げた随身門(神社山門) 山口宗永と縁がある菅生石部神社随身門(神社山門)から見た境内 山口宗永と縁がある菅生石部神社参道越に見た拝殿正面



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