妙成寺(羽咋市)概要: 金栄山妙成寺は石川県羽咋市滝谷町に境内を構えている日蓮宗の寺院です。妙成寺の創建は永仁2年(1294)、当地方の豪族芝原将監の招きで日乗上人が開いたのが始まりと伝えられています。
伝承によると日像上人(日蓮宗の開祖日蓮の孫弟子)は当地方へ信仰を広げる為に佐渡島に渡った後に七尾に向う船中で石動山天平寺の修験者で満蔵法印と法論となり見事勝利しました。
満蔵法印は日像上人の直弟子となり日乗と名乗ると石動山天平寺を全山日蓮宗に改宗させようと画策しましたが、多くの修験僧は反発し武力により弾圧を受けました。これにより日像上人は京都に戻り、日乗は金栄山妙成寺を開き、開祖開山者を日像上人とし、自らは2世となりました。その後、妙成寺は能登地方初の日蓮宗寺院として確立し日蓮宗総本山の1つ、北陸地方の本山として発展しました。
妙成寺は天正9年(1581)に能登国の領主となった前田利家から祈願所として庇護され天正10年(1582)には寺領13俵を寄進、その後も加賀藩2代藩主前田利常が86石、4代光高が34石と加増したことで寺領121石となり大名に準じる格式を得て寺運が隆盛します。
歴史が感じられる妙成寺の五重塔
特に2代藩主利常は生母である寿福院(利家の側室)が日蓮宗の宗徒だったこともあり篤く帰依し慶長19年(1614)には大坂冬の陣の戦勝祈願の為、本堂(入母屋、こけら葺、桁行5間、梁間5間、1間向拝付)、番神堂(三間社流造、こけら葺)、元和4年(1618)には五重塔(高さ34.18m、栩葺、方3間)を建立しています。
寿福院が死去するとその菩提寺として定め三光堂(入母屋、檜皮葺、平入、桁行5間、梁間5間)、祖師堂(入母屋、こけら皮葺、平入、桁行5間、梁間5間)、二王門(入母屋、桟瓦葺、三間一戸、八脚楼門)、鐘楼(入母屋、檜皮葺、袴腰付)などが造営されました。
4代藩主前田綱紀は万治2年(1659)に寿福院と浩妙院の御霊屋と書院を造営しています。
その後も前田家から庇護され寛永8年(1631)には加賀藩3カ国(越中・能登・加賀)の日蓮宗寺院100余カ寺の総録所(触頭)となり境内には七堂伽藍が建ち並ぶ大寺となりました。明治時代に入り加賀藩が廃藩となると庇護者を失い一時荒廃しますが創建以来大きな火災、倒壊等が無く七堂伽藍がそのままの姿を残していた貴重な存在だったことから大正時代から昭和初期にかけて随時改修保存工事が行われ現在に至っています。
妙成寺の聖域を守護する二王門
妙成寺本堂をはじめ祖師堂、二王門、五重塔、経堂、書院 、三光堂、三十番神、庫裡、鐘楼の10棟が国指定重要文化財に指定されているのをはじめ、御堂建築の遺構である丈六堂(釈迦堂)、開山堂が石川県指定有形文化財、妙成寺庭園が石川県指定名勝に指定されています。
寺宝も多く利常が愛娘(浩妙院)の遺品として寄進した山水蒔絵机(縦93.6cm、横38.3cm、高さ25.1cm)と山水蒔絵料紙筥(縦29.7cm、横33.2cm、高さ11.8cm)は国指定重要文化財に指定されています。
蒔絵散華丸盆(江戸時代、直径37.5cm、高さ2cm)、妙成寺総門(江戸時代、高麗門、檜皮葺)、木造日蓮坐像(室町時代、寄木造、像高32.5cm)、木造ニ王像(江戸時代、寄木造、阿形:274cm、吽形:273.5cm)、絹本著色日蓮宗絵曼荼羅(建武2年:1335年、縦109cm、横50cm)、絹本著色毘沙門天像(室町時代、縦125cm、横53.5cm)、妙成寺古文書・典籍類(鎌倉〜昭和時代)、石造笠塔婆(室町時代、6基)が羽咋市指定文化財に指定されています。
山号:金栄山。宗派:日蓮宗。本尊:日蓮聖人奠定の大曼荼羅。
妙成寺:上空画像
高麗門を簡単に説明した動画
|