実盛塚(加賀市)概要: 寿永2年(1183)、倶利伽羅峠の戦いで勝利した木曽義仲(源義仲)はこの機を逃さず平家の掃討を画策し当地まで軍を進めました。平家軍は士気が上がらず敗走する中、斉藤別当実盛の一隊だけが殿として当地に留まり木曽義仲と対峙し奮戦しました。
実盛は義を重んじる武将として知られ、旧主家である源義賢の遺児である駒王丸(木曾義仲の幼名)を命がけで信濃国の中原兼遠のもとに送り届けています。義仲から見ると敵将でありながら命の恩人でもあり、命請いさえすれば許される場面でもありましたが潔く決戦に望みました。
当時の実盛は73歳という高齢でしたが一戦にあたり白髪の頭を黒く染め赤地錦の直垂に萌黄縅の鎧を身に付け義仲配下の手塚太郎光森と一騎打ちに及び討ち取られてしまいます。義仲がこの話しを聞くと実盛の遺骸をこの地に篤く葬り兜を多太神社に奉納し実盛の死を悲しんだと伝えられています。
その後、応永21年(1414)時宗14世遊行上人がこの地を訪れると、実盛の霊が現れ、無念の為成仏出来ないことを告げると、上人が回向したらたちまち成仏したと伝えられています。この故事は後に世阿弥作の謡曲「実盛」として広く知られることになります。
実盛塚:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-石川県-出版元:株式会社人文社
・ 現地案内板-加賀市教育委員会
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