金沢市長町(武家屋敷)概要: 江戸時代、長町は加賀藩の中で平氏と呼ばれる中級武士が多く住む武家屋敷町で20余家を数えました。加賀藩では身分や石高によって屋敷の大きさや門の形式など細かく規定されていた事もあり長町でもある種の統一感のある町並みが続いています。
特に目に付くのが石垣の上に築かれた土塀で、白漆喰ではなく土壁をこて押さえ仕上げをしている為、独特な土色の壁が城下町金沢の景観を印象深いものにしています。
長町の町名の由来は加賀八家に数えられる山崎長門氏や長氏の屋敷跡だったからとも香林坊下から図書橋まで長い町筋だったからとも言われています。長氏は元々、能登半島の国人領主で、能登国守護の畠山氏に従っていましたが、畠山氏が没落後は織田家を経て前田家に仕え、家臣ながら大名並の3万3千石の石高を誇りました。
特に明治維新後に長成連が邸宅を金沢藩に提供した事で屋敷内に金沢藩の藩庁が置かれ金沢藩13代藩主前田慶寧も旧長氏邸で政務を執っています。
明治4年(1871)に廃藩置県が執行されると慶寧は藩知事を退任し東京り、明治5年(1872)には石川郡美川町にあった本吉奉行所に県庁を移し県名も石川県となっています。当時の金沢は不平士族が多かったとされ金沢城に立て籠もられるのを防ぐ為だったとされますが、能登半島が石川県に編入されると、利便性と地理的に中心に近かった事から再び金沢に県庁が移されています。
現在も「長町武家屋敷跡」には野村家住宅(前田家直臣、野村伝兵衛信貞家、1千2百石、御馬廻組組頭など)や高田家跡(550石、長屋門は金沢市指定保存建造物)、大屋家住宅(江戸時代末期の武家屋敷の遺構、金沢市指定保存建造物・国登録有形文化財)、新家家住宅(旧中級武士の桑島家長屋門:金沢市指定保存建造物)、天野家住宅(前田家直臣、300石、長屋門) 、清水家住宅(金沢市足軽資料館)、高西家住宅(金沢市足軽資料館) などの武家屋敷や土塀(木羽板葺、黄土色)、長屋門、などが細い路地に当時の武家町の景観を作り出し雰囲気のある町並みを見る事が出来ます。
長町1丁目、長町2丁目、長町3丁目、片町2丁目の各一部、約約7.7haが金沢市の景観地区「長町武家屋敷跡周辺地区」に指定されています。
金沢市長町:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 日本の城下町6北陸-出版元:株式会社ぎょうせい
・ 現地案内板-金沢市
|
|