安宅町(小松市)概要: 安宅町の地名の由来は「寇が浦」(異国が攻めて来た海岸)からきていると言われています。古くから交通の要衝とされ古代の官道である木曾街道が敷かれ安宅町には安宅駅(江戸時代でいう宿場町のような存在)が設置され常時馬などが置かれました。
源平合戦の舞台ともなり寿永2年(1183)には平維盛・知盛の軍が京都から攻め上がり反乱軍である越中勢の水巻・石黒・福光氏らと梯川を挟んで対峙、結果、平家軍が川の浅瀬を渡り大勝利を収めました。倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲に敗れた平家は安宅まで引き下がり、さらに篠原の戦いで敗れ京都へと敗走します。
又、不確定ながら安宅町には安宅の関と呼ばれる関所が設けられたとされ、源頼朝と不仲となった義経が奥州平泉(岩手県平泉町)へ落ち延びようとした故事の謡曲「安宅」や歌舞伎「勧進帳」の舞台としても有名です。
江戸時代に入ると小松城の外港として整備され安宅湊は北前船の寄港地として多くの船主や商家が集まり賑わいを見せました。安宅町には加賀藩の米倉や船問屋の倉庫が建ち並び多くの物資が運び込まれました。
明治時代に入り鉄道や国道が整備されると海運業は衰退し当時の賑わいが失われ、僅かに残る町並みが当時の雰囲気を感じさせてくれます。
小松市安宅町:上空画像
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