伊須流岐比古神社

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概要・歴史・観光・見所

伊須流岐比古神社(中能登町)概要: 伊須流岐比古神社は石川県鹿島郡中能登町石動山子に鎮座している神社です。伊須流岐比古神社の創建は崇神天皇6年(紀元前92年)、天照大神の神勅により諸国に神社が開かれる事となり石動山には13番目の神社として方道仙優婆塞が派遣され、宝剣を収めたと伝えられています。

垂仁天皇の第一皇子である誉津別皇子は青年になっても言葉を発せないでいた事から方道仙人が伊須流岐比古神社の前身である金剛証大宝満宮で祈願すると皇子は不思議と言葉を発するようになったとされます(日本書紀や古事記によると誉津別皇子は鵠を見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発したとされ、伊須流岐比古神社の伝承とは異なります)。

一方、「石動山新縁起」によると養老元年(717)に白山を開いた泰澄大師が天平8年(736)に疫病が蔓延した事を危惧し、越国を訪れた行基菩薩と合議の上、白山神の分霊を石動山に勧請し伊須流岐比古神社の前身である金剛証大宝満宮を創建したとしています。

又、他の由緒では霊亀2年(716)に修験道の開祖とされる役行者が石動山に登拝したともあり、当初は修験道場として重きを成していたようです。

延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載があり古くから広く信仰され、治承4年(1180)に藤原家通が参拝した以降は勅願寺として篤く保護されます。

石動山に鎮座している伊須流岐比古神社の境内
石動山に鎮座している伊須流岐比古神社の境内

伊須流岐比古神社は古くから真言宗寺院の「石動山天平寺」と神仏習合の形態を持ち、最盛期には能登、加賀を中心に、越中、越後、佐渡、信濃、飛騨に社領を持ち4万3千石に上ったとされ、末社80余社、坊院360余を従え白山と並ぶ一大山岳霊場となり、能登国では気多大社に次ぐ能登国二ノ宮の格式を得ています。

南北朝の動乱時に越中国司中院定清を匿った為、足利尊氏の命で焼き討ちにあい、その後、尊氏が再興し能登守護職の畠山氏が庇護します。畠山氏が滅ぶと庇護者を失い、さらに織田信長が能登を制圧すると側近である菅屋長頼七尾城に入り、不穏分子だった温井景隆・三宅長盛兄弟などを匿った事から社領が大幅に削減されるなど苦境に立たされます。

天正10年(1582)に本能寺の変により織田家中が混乱すると畠山氏の遺臣と天平寺衆徒が伊須流岐比古神社に立て籠もり旧領を回復するよう行動します。しかし、新たに領主となっていた前田利家をはじめ柴田勝家、佐久間盛政など軍に囲まれ全山焼き討ちに遭い伊須流岐比古神社もことごとく廃塵に帰しました。

天正11年(1583)に豊臣秀吉が再興、慶長2年(1597)に前田利家が大宮(男体・大宮大権現:虚空蔵菩薩)、白山宮(女体・客人大権現:十一面観音又は如意輪観音)、火宮(蔵王大権現:聖観音)、梅宮(鎮定大権現:勝軍地蔵)、剣宮(降魔大権現:倶利迦羅不動明王)5社の社殿を造営し以後加賀藩主前田家から庇護されます。

伊須流岐比古神社は古くから神仏習合し石動五社大権現などと称していましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され神社として独立、多くの支院は離散し明治5年(1872)に郷社に列しました。祭神:伊須流岐比古神(大宮大権現:伊弉諾命)、白山比盗_(客人大権現:伊弉册命)。

神秘的な雰囲気がある伊須流岐比古神社の拝殿
神秘的な雰囲気がある伊須流岐比古神社の拝殿

【 伊須流岐比古神社の文化財 】−現在の伊須流岐比古神社本殿は承応3年(1654)加賀藩2代藩主前田利常(前田家2代目当主)の命で加賀藩御大工黒田太右衛門が棟梁として手掛けたもので、入母屋、銅板葺(元こけら葺)、桁行3間、梁間2間、3間軒唐破風付き向拝、正面には千鳥破風を設えています。

元々は本社(大宮・客人宮)本殿として石動山頂付近に建立されていましたが明治7年(1874)に現在地に移され伊須流岐比古神社の本殿としました。

拝殿は元禄14年(1701)に建てられたもので入母屋、銅板葺、桁行7間、梁間4間、平入、棟梁として池上兵 助実次・池上亦三郎・小工与四兵衛・与三兵衛が担当、当初は神輿堂として建立されましたが本殿同様に明治7年(1874)に伊須流岐比古神社の拝殿として現在地に移築されています。

本殿と拝殿は当時の社殿建築の遺構として貴重な事から名称「伊須流岐比古神社本殿及び拝殿」として昭和42年(1967)、石川県指定有形文化財(建造物)に指定されています。

伊須流岐比古神社行者堂は18世紀初頭頃に前身堂宇の古材を利用して再建されたもので、明治時代の廃物希釈の際、払い下げとなり最勝講村の鎮守である天神社拝殿として利用、その後拝殿が新築される事となり再び石動山に移築されました。

建物は木造平屋、入母屋、銅板葺、平入、桁行3間、梁間2間、外壁は真壁造板張り、江戸時代中期の御堂建築の遺構として貴重な事から中能登町指定文化財に指定されています。

伊須流岐比古神社境内には講堂跡や五重塔跡、籠り堂跡、開山堂跡、鐘楼跡や雨乞いの祈祷に用いられた「イワガシ池」など神社の境内であるながら仏教色の濃い神仏習合の名残が随所に残っています。境内を含む石動山一帯は大変貴重な事から名称「石動山」として昭和53年(1978)に国指定史跡に指定されています。

伊須流岐比古神社の文化財
・ 境内を含む石動山一帯−国指定史跡
・ 本殿−承応3年−入母屋、銅板葺、桁行3間、梁間2間−石川県指定文化財
・ 拝殿−元禄14年−入母屋、銅板葺、桁行7間、梁間4間−石川県指定文化財
・ 石動山古縁起−文明11年に書写、元和9年奉納−中能登町指定文化財
・ 石動山新縁起−承応3年製作−中能登町指定文化財
・ 伊須流岐比古神社古文書−中能登町指定文化財
・ 絹本著色三千仏図(3幅対)−中能登町指定文化財
・ 紙本著色石動山内古絵図−中能登町指定文化財
・ 紙本著色寛文石動山境内絵図−中能登町指定文化財
・ 紙本著色元禄石動山領境絵図−中能登町指定文化財
・ 紙本淡彩石動山山内絵図−中能登町指定文化財
・ 絹本著色仏涅槃図−中能登町指定文化財
・ 蒔絵石動山天平寺縁起箱−中能登町指定文化財
・ 伊須流岐比古神社本殿・拝殿棟札−中能登町指定文化財
・ 佐渡の石燈籠−中能登町指定文化財
・ 行者堂−18世紀初−入母屋、銅板葺、平入−中能登町指定文化財

伊須流岐比古神社:上空画像

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-石川県-出版元:株式会社人文社
・ 日本史跡大辞典1-出版元:株式会社日本図書センター
・ 発掘が語る日本史-3東海・北陸編-出版元:株式会社新人物往来社
・ 現地案内板-中能登町教育委員会


伊須流岐比古神社:ストリートビュー

伊須流岐比古神社(中能登町):写真

伊須流岐比古神社石造社号標と石段
[ 付近地図: 石川県中能登町 ]・[ 中能登町:歴史・観光・見所 ]
伊須流岐比古神社石段から見上げた石鳥居 伊須流岐比古神社参道沿いにある石燈篭と石段 伊須流岐比古神社拝殿と残雪残る境内 伊須流岐比古神社拝殿正面の外壁と屋根から落ちた雪
伊須流岐比古神社石段から見上げた本殿 伊須流岐比古神社境内にある権現堂跡 伊須流岐比古神社境内にある多宝塔跡 伊須流岐比古神社境内にある経蔵跡
伊須流岐比古神社境内にある大師堂跡 伊須流岐比古神社境内にある「イワシガ池」と石祠 伊須流岐比古神社境内に流れ落ちる清水 伊須流岐比古神社境内に建立されている行者堂


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