加賀八家長家

  石川県:歴史・観光・見所(ホーム)>東嶺寺(石川県・七尾市)
【 菩提者 】 長家は長谷部信連(鎌倉幕府の御家人)が能登大屋荘の地頭として土着しその後裔が長氏を称したのが始まりとされます。室町時代に入ると能登守護職畠山家の家臣となりますが幕府の奉公衆として京都の出仕が増えると相対的に国人領主だった温井氏の台頭を許しています。戦国時代の続連(平加賀守盛信の次男、18代英連の養子)の代には畠山七人衆に数えられるなど畠山家中でも大きな影響力を持ちました。越後の上杉謙信、美濃の織田信長が台頭してくると家中でも上杉派と織田派に分かれ対立、続連は織田派の中心人物として幼少だった畠山春王丸を擁立し事実上畠山家の実権を握ります。天正5年(1577)、上杉謙信の能登侵攻により七尾城(七尾市)に籠城しますが、城内に疫病が蔓延し家中の足並みが乱れると続連、綱連は上杉派だった温井景隆や遊佐続光に討ち取られ(自害したとも)一時没落します。続連の次男連龍は一族が撲殺された中、織田信長に援軍要請の為、乞食僧に変装し七尾城を脱出した為生き残り、事実上21代長家当主としてそのまま信長の家臣となります。天正6年(1578)上杉謙信が没すると織田家の協力を得た連龍は能登国を蹂躙、鹿島半郡(59ヶ村)を与えられ宿願だった遊佐続光・盛光父子などを討ち取っています。天正10年(1582)、信長が本能寺の変で倒れると、七尾城の城主となっていた前田利家に与力大名とし3万1千石が安堵され、その後の前田家に常に従軍し功を挙げ、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後に3万3千石に加増されています。江戸時代に入ると前田家家中の中でも半独立領主の立場を維持していましたが長元連が寛文7年(1667)、御家騒動(浦野事件)により廃嫡となり寛文11年(1671)尚連が長家を継いだ際、鹿島半郡が取り上げられ、それと同等の領地が前田家から与ええる事で完全に前田家の家臣として組み込まれ居所も金沢城下に移されています(鹿島半郡の実石は5万5千石程度だったので事実上減石)。加賀藩には1万石以上の家臣が8家存在し「加賀八家」と呼ばれ家老などを独占する立場でしたが長家の3万3千石は本多家の5万石に次ぐ第2位にあたり大きな影響力を持ちました。東嶺寺(七尾市)は長家が領主時代の菩提寺で、天正5年(1577)には長通連の夫人の菩提を弔った事から戒名に因み花渓寺に改称し、慶安4年(1651)には長家の中興の祖とされる長連龍の菩提を弔う為に堂宇が改築され戒名(東嶺良如庵主)に因み東嶺寺に改称しています。東嶺寺境内に建立された長家墓所(9基)が七尾市指定史跡に指定されています。

【 寺  号 】 東嶺寺
【 所在地 】 石川県七尾市田鶴浜町
【 中興年 】 永正17年(1520)
【 開  山 】 日三梵朔和尚(實峯)
【 開  基 】
【 山  号 】 龍松山
【 宗  派 】 曹洞宗
【 本  尊 】 釈迦牟尼
【 備  考 】 東嶺寺内長家墓所(9基)−七尾市指定史跡
石川県大名菩提寺
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