東茶屋街(概要・歴史)概要: 東茶屋街は金沢百万石の城下町の風情を現在最もとどめている街の1つです。金沢市には東茶屋街の他に西茶屋街(読み方:にしちゃやがい)、主計町茶屋街(読み方:かずえまちちゃやがい)の三箇所に茶屋街があり「金沢三茶屋街」と呼ばれています。
何れも歴史がある共に良好な町並みが残されている為、独自の修景計画が立てられ着々と進んでいます。東茶屋街はそのうちでも最大規模を誇り、現在でも8軒の茶屋が営業し、芸子さんや芸者さんは20名程、町の中には笛や太古、三味線などの音が流れ、当時の歴史的な町並み景観とあわせてなんとも言えない雰囲気があります。
東茶屋街は金沢城の城下町に町割りされた町ですが、金沢城の前身である尾山御坊(金沢御堂)が設けられた戦国時代の天文15年(1546)当時は当然このような町は存在せず、江戸時代に入り金沢城として整備された後も東茶屋街はありませんでした。
加賀藩前田家は100万石という諸大名の中では最大の石高を有していた事から家臣の数も最大規模となり、それに伴い城下町は大消費地として豪商を数多くの排出し、金沢独自の茶の湯文化が発達しました。
そのような中、裕福な町人や文化人が歌舞や和歌を嗜む文化が発生し、それらが行える施設が増える一方で現在でいう風俗店、当時は出合宿と呼ばれた遊女を囲う店も横行し加賀藩も何度も禁止令を出し取り締まりを強化しました。
本来、それらの行為は茶屋として認められる施設で営業され、藩の許可が必要でしたが、加賀藩では風紀の乱れや治安悪化を恐れて、なかなか許可を出さなかった事から上記のように無許可、無秩序で営業され、元禄3年(1690)には加賀藩士(武士)4人が遊女19人を囲い出合宿を経営していた事が発覚し関わった多くの人々が処分されるという高崎事件が起こりました。
歴史が感じられる東茶屋街の路地の町並み
茶の湯が行われる茶屋は城下町にバラバラに点在していましたが、江戸時代後期になると風紀が乱れ茶屋を通してみだらな行為や規律を逸脱する輩が増大した為、加賀藩では文政3年(1820)に東西2箇所に遊郭を設け、その区画のみ茶屋の営業を許可し、売り上げの一部を藩に上納させる事で藩の財政向上と、風紀の乱れ、治安の管理を行う計画を立てました。
東茶屋街の場合は金沢城の北東、浅野川の東側に茶屋街と呼ばれる遊郭を整備し、茶屋街の周囲には木柵などを回し、出入り口を限定する事で利用する人々を管理、金沢城の城下町の秩序回復を目指し、同時に城下の西側にも茶屋街を町割りした為、江戸時代後期の金沢城の城下町には東西2カ所の茶屋街が存在しました。
そのような経緯もあり、「東山ひがし(東茶屋街)」では以前の無秩序の町割を一掃し、改めて碁盤の目のように区画町割され中央の2番丁は道幅を広くして格式のある町並みを演出しています。
当初は「東廓」などと呼ばれ歓楽街として栄え、時には文化人達の社交場にもなり大変賑わったようで、慶応3年(1867)に編纂された「東新地細見のれん鏡」によると茶屋数112軒(大暖簾61軒、中暖簾42軒、小暖簾9軒)、芸妓119人、遠所芸妓45人、娼婦164人と記載され大きく発展していた事が窺えます。
明治時代に入り主計町(国の重要伝統的建造物群保存地区)にも茶屋街が設けられ、ひがし茶屋街(東茶屋街)、にし茶屋街(西茶屋街)と合わせて金沢三大茶屋街と呼ばれ、東茶屋街では豪商、文化人、にし茶屋街では一般庶民、主計町茶屋街は官僚、役人と利用する人が限られ、武士も当初は風紀上の問題から形式的には禁ぜられ、重臣の嫡男が東茶屋街に出入していた事が問題となり廃止されたという歴史を持っています。
東茶屋街:上空画像
【東茶屋街の歴史ある町並み】−東茶屋街の町並みは茶屋様式と言われる建物が軒を連ね特に「志摩」や「懐華樓」などは江戸時代当時をよく伝えており文化財にも指定されています(志摩は国指定重要文化財。懐華樓は金沢市指定文化財)。
茶屋様式は概ね木造2階建ての町屋建築が基本となっていますが、町屋建築が軒の高さに制限があるのに対し、茶屋街ではその制限が無い為に比較すると軒の高く建築されています。意匠的には1階正面は目の細かい格子が嵌め込まれた出格子、2階正面は廊下が配され、手摺と開閉可能な雨戸があり、雨戸が開かれると立体的な表情となり客室から外部が望めるようになっています。
外壁は弁柄色が多く、室内も弁柄や群青色など庶民の住まう民家では使われないような色使いが行われ、階段や吹き抜け、手摺、座敷の精緻な彫刻など非日常空間を演出しています。二番丁では大方の建物の修景が終わり石畳や電柱の地中化、街路等のデザイン化なども随時行われ、路地に入ってもその風情が連続していて、数年前に訪れたときと比べても比較にならないほど整備されています。
東茶屋街は重要伝統的建造物群保存地区に指定されている中の3分2が明治初期までに建てられた建物で埋め尽くされ良好な町並みが残されています。
現在も東茶屋街には江戸時代後期から明治時代に建てられた数多くの茶屋建築が軒を連ね、このような茶屋街の歴史ある町並みが残されているのは全国的に見ても極めて貴重な存在で東西約180m、南北約130m、面積1.8haが平成13年(2001)11月14日に名称「金沢市東山ひがし伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
東茶屋街:周辺駐車場マップ
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