【 概 要 】−前田利久は当主前田利春の長男として生まれ、前田家を継ぎましたが永禄12年(1569)、主君である織田信長の命により本来継ぐはずのない弟の前田利家に家督を剥奪されました。記録的には利久は病弱などで家督を継ぐ能力が無いとの理由ですが、織田家から見ると滝川家から婿養子として迎えた前田慶次より信長の寵愛を受けた利家に継いでもらった方が有利という事なのかも知れません。
この事により利久と利家は対立関係となり結果的に利久は居城であった荒子城から追い出され流浪の身となっています。天正10年(1582)に織田信長が本能寺の変で倒れると、利久は許され(信長に遠慮していた?)天正11年(1583)には能登7千石が与えられ金沢城代などの要職を歴任し天正15年(1587)に死去、戒名「真寂院孤峯一雲」、遺骸は野田山に埋葬されました。利久の墓は前田家墓地の中でも最高地にあり、信長死去後は兄を重んじていたと思われます。
慶長4年(1599)に利家が大坂で死去すると、遺言により葬儀は菩提寺である宝円寺で行われ菩提は野田山の利久の一段低い場所に葬られました。慶長5年(1600)には利家を継いだ前田利長が墓守の菩提寺として野田宝円寺を創建し、後に利家の戒名「高徳院殿桃雲浄見大居士」に因み「高徳山桃雲寺」に寺号を改称し、2代藩主前田利常(利家の4男)は寺領58石を寄進しています。加賀藩を成立させた利長は利常に家督を譲ると早々と隠居し慶長19年(1614)に隠居城である高岡城(富山県高岡市)で死去、遺骸は菩提寺である瑞龍寺に葬られましたが野田山にも墓所が設けられています。
その後も加賀藩の歴代藩主が埋葬されましたが、3代藩主前田光高は生母である珠姫の菩提寺天徳院(金沢市)、8代藩主前田重靖も同じく天徳院に葬られています(昭和27年に小立野小学校の建設で造成された際、野田山に改葬)。藩政時代は桃雲寺による仏式による祭祀が行われてきましたが明治7年(1874)、当時の当主前田利嗣によって神式に移行し位牌と廟堂が廃され墓の前に鳥居が設けられ現在に近い形式となっています。
明治8年に石川県の所有となり、さらに金沢市へと移管、明治33年に前田家墓地が金沢市より前田家に寄贈されると、前田家は積極的に東京都や金沢市内にあった前田家縁の墓碑を野田山に改葬、整備し合計84基となっています。又、当初は前田家一族の墓地でしたが、その後、加賀八家と呼ばれる重臣や、家臣、18世紀以降は町民にも解放され野田山には数多くの墓碑が存在しています。
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