主計町茶屋街(歴史)概要: 主計町の町名の由来は加賀藩士で大坂夏・冬の役で功を立てた富田主計重家がこの地に上屋敷を設けた事に因んだもの云われています。この事は重家の後裔で加賀藩の郷土史家である富田景周が編纂した「越登加三州志」に記載されています。
富田家は戦国時代、越前国守護の朝倉家の家臣だった家柄で、武勇に誉れ初代となる富田長家は中条流剣法を極めると富田流剣法の開祖として知られています。
朝倉家が滅ぶと前田利家の家臣となり富田重政が重臣として重用されると1万3千6百石を領しました。重家はその重政の子供に当たり、利家の孫で、豪姫の娘を正室に迎えている事からも格式の高い人物だったと言えます(景周の代には2千5百石程度)。その後、富田家は当地を離れ旧博労町辺りに屋敷を構えると主計町は改めて町割りされたと思われ寛文7年(1667)には既に地子町となっていました。
文化8年(1811)に編纂された「金沢町名帳」によると家数42軒、古手買や苧綛織、御領国旅人宿、町医、蕎麦屋といった職種が占め正面を浅野川、東西を金沢城の惣構堀で囲われた細長い町だった事が分かります。
明治2年(1869)主計町に遊郭が認められると次第に発展し、明治時代中期には「ひがし茶屋街」、「にし茶屋街」と並ぶ金沢三茶屋街の1つに数えられ最盛期の昭和初期には茶屋60軒、芸妓100人以上を擁していました。
金沢城の城下町には江戸時代後期にはすでに浅野川沿いの東郭(ひがし茶屋街=東山ひがし)と犀川沿いの西郭(にし茶屋街)が成立していた事から主計町茶屋街は3番目の遊郭という事になり、さらに金沢城下では西郭の近くに北郭をもうけて4箇所の遊郭が存在していました。
基本的に東郭は武士(当初は武士の遊郭利用は禁じられた)や上層商人、文化人、西郭は一般庶民、主計町茶屋街は官僚や役人が利用していたとされ、その後の「北郭」や「愛宕」、「石坂」などは戦前まで赤線や青線などと呼ばれた花街として発展しました。
ちなみに「主計町」と「愛宕」は東郭(ひがし茶屋街=東山ひがし)、「北郭」と「石坂」は西郭(にし茶屋街)に隣接して設けられ、それぞれ歓楽街を形成していましたが、戦後の改正などにより主計町と東郭(ひがし茶屋街=東山ひがし)、西郭(にし茶屋街)は歓楽的な要素を廃した茶屋街、料亭街に転じ、残りの街は衰退したようです。
主計町は昭和45年(1970)に尾張町2丁目に吸収され町名が消失しましたものの、金沢城の築城により町割されて以来の旧町名が無くなる事は町民にとっても心の拠り所を失った事と同義という事で、平成8年(1996)には旧町名復活委員会結成、その後何度も協議を繰り返し平成11年(1999)に全国初の旧町名(主計町)の復活が遂げられました。
主計町茶屋街はひがし茶屋街やにし茶屋街とは異なり浅野川に面して茶屋建築が建ち並び一歩細い路地に入ると遊郭独特の隠微な空間や石段があることでより情緒豊かで他の茶屋街では見られない独特な町並みが見られます。
主計町茶屋街の大きな特徴は、町自体が小さく纏まり、細い路地に沿って密集して茶屋建築が建てられている事で、さらに地形により一段低い土地にある事から「暗がり坂」と「あかり坂」と呼ばれる石段をかいして町の中に入る様は日常と非日常を隔てる演出効果となり一掃茶屋街の雰囲気を醸し出しています。又、浅野川に面して茶屋建築は、3階部分が増築され室内から浅野川の流れを見れるように工夫され特徴ある町並みが見られます。
主計町茶屋街は度々文芸作品の舞台にもなり五木寛之の小説「浅の川暮色」は主計町を舞台とした新聞記者と少女との恋愛を描いたもので、泉鏡花の「化鳥」や「照葉狂言」は主計町に架かる「中の橋」が舞台となっています。主計町では1階が出格子、2階が吹放しの縁側といった主屋の上に3階を増築し、より浅野川の風景を楽しむ工夫が見られ茶屋建築が見られ特長の1つとなっています。
主計町という町名は、昭和45年(1970)に尾張町2丁目に変更され一旦地図上で消えましたが平成11年(1999)に多くの住民達の要請により全国で初めて旧町名を復活させました。
主計町茶屋街は当時の町並みを現在に伝える貴重な町である事から東西約150m、南北約140m、面積0.6ha、種別「茶屋町」、選定基準「伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの」として平成20年(2008)に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
主計町茶屋街:上空画像
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