能登半島:歴史・観光・見所

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能登半島(歴史):概要 能登半島は富山県と石川県に跨る日本海に突き出た半島で(主に石川県)、日本海で形成された半島としては最大の面積を誇ります。地形的には平地が極端に少なく、多くが丘稜で周囲を海で囲われているといった特異な自然環境だった事から独自の文化が発展し、産業的には日本海の海流に乗った豊富な水産資源を求めて漁業が発展し入り組んだ地形を生かした漁港が数多く存在しました。又、能登半島には平地が少なかった事から所謂、棚田や段々畑といった地形に合わせた耕作地が発展していきました。歴史的には当初は古代の越前国に属していましたが養老2年(718)に羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の4郡をもって能登国が立国しました。能登国分寺(国指定史跡)や延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載された名神大社で一之宮である気多大社、同じく式内小社で二之宮である伊須流岐比古神社などが創建、特に伊須流岐比古神社は中世に入り天平寺と神仏習合し修験の拠点として大きな影響力を持ち最盛期には社領4万3千石、末社80余社、坊院360余を擁し白山と並ぶ一大山岳霊場となりました。仏教的にも後に大本山総持寺となった総持寺祖院が鎌倉末期に創建され、明治時代に大本山が神奈川県横浜市鶴見区へ移るまで当院が永平寺(福井県永平寺町)と共に曹洞宗の中心を成しました。又、妙成寺も北陸地方の日蓮宗の本山として多くの末寺を擁し、境内には文化財指定される数々の堂宇が健在し現在でも一大伽藍を見る事ができます。戦国時代には長氏などの国人領主が割拠し能登半島を拠点とする大きな大名が存在しなかった為、能登半島の守護大名だった畠山家が七尾城で越後の上杉謙信に滅ばされると上杉領となり、謙信が死去すると織田信長の侵攻により前田利家などが配されました。江戸時代には加賀藩(前田家)に属しましたが当初、鹿島半郡は古くからの国人領主で畠山家、前田家に使えた長氏が直接支配しました。長氏は加賀八家に数えられ家臣ながら3万2千石を領する大名並みの待遇を受けています。

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