石動山天平寺(中能登町)概要: 石動山天平寺の創建は垂仁天皇の御代、笥飯大臣が大宮坊を建立したのが始まりと伝えられています(養老元年:717年に泰澄大師が開山したのが創建とも、霊亀2年:716年に役行者が石動山に登拝したとも云われています)。
山号の由来は 「石動山縁起」 によると伊須流岐比古神社の境内の一角に位置する「動字石」が宇宙から落下し、当地に衝突した刹那、山全体が大きく揺れ動いた事に起因すると記されています。その為、当初は石動寺と称していましたが天平勝宝年間(749〜757年)、智徳上人が元正天皇の勅命により堂宇を建立し寺号を天平寺に改称しています。
平安時代中期以降、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載された式内社で能登国二ノ宮の伊須流岐比古神社と神仏習合し、その別当として広く信仰を集めます。特に、仁和寺の末寺となると寺運が隆盛し最盛期には能登、加賀を中心に、越中、越後、佐渡、信濃、飛騨に4万3千石の寺領を持ち、末社80余社、坊院360余、僧坊3000人を従える白山と並ぶ一大山岳霊場となります。
中世、大きく繁栄した石動山の山内
石動山は南北朝の動乱時に越中国司中院定清を匿った為、足利尊氏の命で焼き討ちにあいますが、その後、尊氏が再興し能登守護職の畠山氏が庇護します。畠山氏が滅ぶと庇護者を失い、さらに織田信長が能登を制圧すると側近である菅屋長頼が七尾城に入り、不穏分子だった温井景隆・三宅長盛兄弟などを匿った事から社領(寺領)が大幅に削減されるなど苦境に立たされます。
天正10年(1582)本能寺の変で信長が亡くなると畠山氏の遺臣と天平寺衆徒が石動山に立て籠もり旧領を回復するよう行動したものの、新たに領主となっていた前田利家をはじめ柴田勝家、佐久間盛政など軍に囲まれ全山焼き討ちに遭いことごとく廃塵に帰しました。天正11年(1583)勅命により豊臣秀吉が石動山を再興し以後は加賀藩主前田家から庇護され社殿の造営などが行われます。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により、多くの支院は離散して伊須流岐比古神社の本殿や拝殿、唯一の坊の遺構である旧観坊(石川県指定有形文化財)だけが残され当時の繁栄が偲ばれます。
石動山天平寺:上空画像
一方、石動山から移築されたものも少なからず現存し、同町内の長楽寺には石動山伽藍総門や石動山天平寺権現堂本尊胎蔵大日如来、石動山大講堂に安置されていた弘法厄除大師が遷され、石動山天平寺の開山堂と伝わる建物が道神社(富山県氷見市)の拝殿となっています。
その他にも富山県小矢部市の聖泉寺には天平寺の伊須流伎比古命の本地仏だったとされる木造虚空蔵菩薩坐像が遷されています。石動山一帯は大変貴重な事から昭和53年(1978)に国指定史跡に指定されています。
石動山天平寺:周辺駐車場マップ
【 参考:サイト 】
・ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-石川県-出版元:株式会社人文社
・ 日本史跡大辞典1-出版元:株式会社日本図書センター
・ 発掘が語る日本史-3東海・北陸編-出版元:株式会社新人物往来社
・ 現地案内板-中能登町教育委員会
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