七尾城

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概要・歴史・観光・見所
七尾城(松尾城・末尾城)概要: 七尾城の築城年は不詳ですが室町時代、能登守護職にあった畠山氏代々の居城で、一説には初代畠山満慶が正長年間(1428〜1429年)に築いたとも云われています。当初は砦程度の規模だったとされますが4代義元の代で城郭としての基礎を築き、5代畠山慶致の代に守護所を七尾城に移し7代畠山義総、8代畠山義続、9代畠山義綱の代に大規模な整備が行われたと思われています。七尾城もその都度強化され中世の北陸地方の山城では珍しい大規模な石垣が築かれ、戦国時代には能登国の守護所も七尾城に移され、山麓に設けられた城下町は幾重にも重なりあい活況を呈していたそうです。

七尾城は標高310mの尾根上山(城山)に築かれ山頂付近にある本丸を中心に二の丸・三の丸・西の丸・調度丸・遊佐屋敷・温井屋敷・寺屋敷・桜の馬場などの主要な郭の他、おびただしい小さな郭が7つ尾根沿いに備えられています。七尾城の名称もこの七つの尾根(松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾)があることからに由来すると云われ、松尾城や末尾城とも呼ばれました。七尾城の石垣は登城側である北面に重点的に整備され、2〜3m程の高さの石垣を数段に分け高く積み上げるといった独特の風景が見られ難攻不落、天然の要害などとも呼ばれました。

天文16年(1548)、畠山一族で内乱が起きると、それを収めた守護代である遊佐続光が台頭、さらに権力争いも激化し能登国の弱体化が進みました。上杉謙信が台頭すると、対立はさらに激化し11代義隆が暗殺されるなどの混乱もあり謙信の能登侵攻の口実となっています。天正3年(1576)、謙信が2万の兵を率いて七尾城を攻め立てましたが堅城であった為、城兵は2千だったにもかかわらず落城には至らず春日山城(新潟県上越市)に帰城しました。すぐさま、畠山家は再び能登国を掌握したものの、謙信は兵力を整え再び能登に侵攻、畠山家は占拠した支城を放棄して七尾城に籠りました。しかし、今回の籠城戦は領民なども加わり1万5千人が立て籠もった為、城内が極端に不衛生となり疫病が蔓延、当主である畠山春王丸も病に倒れ、支柱を失った畠山家臣は上杉派と、織田派に別れ分裂状態となります。上杉派だった遊佐続光が対立した長続連など長一族を一掃し城内を掌握すると謙信に対し開城、天正5年(1577)、能登半島の畠山家支配が終焉しました。

天正6年(1578)、謙信が死去すると越後国内で跡継ぎ争い(御館の乱)が激化し上杉家が弱体化、織田信長の侵攻を許し北陸方面を任された柴田勝家の与力である前田利家に七尾城が与えられました。能登国主となった利家は天正9年(1581)には七尾城に入り大規模な改修整備を行いましたが、七尾城は山城で高所にあった為、政治、行政的には不向きで七尾港に近い所口村に小丸山城を築城し領内の中心地とし、七尾城は小丸山城の詰城的存在となりました。天正11年(1582)賤ヶ嶽の合戦で羽柴秀吉側に付いた利家は新たに石川・河北両郡を加増されたことで金沢城へ移り、七尾城の軍事的意味合いが次第に薄れ天正17年(1589)に廃城となります。

七尾城(石川県七尾市:標高約300m、石動山系城山)は現在も保存状態が非常に良く、当時の大規模山城の威容が分かるものとして昭和9年(1934)に国指定史跡に指定され、春日山城(新潟県上越市:標高182m、蜂ヶ峰)・小谷城(滋賀県長浜市:標高約495m、小谷山伊部山)・観音寺城(滋賀県近江八幡市:標高432.9m、繖山)・月山富田城(島根県安来市:標高197m、月山)と共に日本五大山城の一つにも数えられています。七尾城は平成18年(2006)に日本100名城に選定されています。

【 七尾城の戦い 】−戦国時代に入ると能登守護職を担った畠山家が凋落が顕著になり、永禄9年(1566)9代畠山義綱が重臣である長続連、遊佐続光、八代俊盛などの反乱により能登から追放され、嫡男の畠山義慶が10代当主として擁立されました。しかし、その義慶も天正2年(1574)に死去、さらに跡を継いだ畠山義隆(義慶の弟)も天正4年(1576)に死去、結果的には義隆の嫡男である春王丸が幼少ながら当主に就任しました。こうなると、畠山家には国内を押える力はなく、家臣達だけで領内運営が行われるようになり、それを危惧した春王丸の後見だった長綱連は上杉謙信に近づきますが、事実上、無条件降伏が勧告され、上杉家との対立が決定的となりました。上杉謙信は居城である春日山城から出陣し、能登に侵攻、それに伴い畠山勢も七尾城に集結し籠城戦の準備を始めました。畠山勢は上杉勢を背後から撹乱させる為に大規模な一揆を発生させようとしましたが、難なく鎮圧され、間も無く大軍を持って七尾城に取り囲みました。

しかし、七尾城は堅城として知られ、犠牲の割には一向に落ちる気配がありませんでした。そこで、七尾城の周辺にある支城を次々に撃破し、孤立化図りましたが、なお堅守して落城には至りませんでした。天正5年(1577)3月、北条氏政が北関東出兵した事に伴い、謙信が一時春日山城に引き上げると、畠山勢は攻勢に転じて、各支城を取り返し一定の成果を上げました。しかし、7月に入ると、北条家の侵攻も止んだ為、再び謙信は七尾城に侵攻、畠山勢は再び籠城戦に備える一方で長続連は織田信長に対して援軍を要請し了承されています。今回の戦いでは七尾城には領民合わせて1万5千人が立て籠もり、夏場の季節だった事から、城内は極端に不衛生となり、疫病が蔓延し形式上とはいえ旗頭である春王丸も病によって倒れた事で家臣内でも動揺の局地となります。そのような中、元々上杉派だった遊佐続光、温井景隆、三宅長盛兄弟などが上杉家に内応し、9月15日、密かに城門を掌握して上杉勢を城内に導き入れ堅城を誇った七尾城も遂に落城しました。

七尾城(石垣・土塁):写真

七尾城
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