石動山天平寺(伊須流岐比古神社)旧観坊

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石動山天平寺旧観坊

石動山天平寺旧観坊(伊須流岐比古神社)
旧観坊(石川県中能登町)概要: 石動山天平寺旧観坊(石川県指定文化財)は能登国二之宮に格付けされた伊須流岐比古神社の別当寺院である石動山天平寺の院坊(最盛期は360坊、江戸時代は58坊)の1つです。旧観坊は案内板によると「 明治初年、一山崩壊の運命にみまわれた石動山に残された唯一の坊である。建物規模は、桁行10間半、梁行6間で、平入りで入母屋造り、茅葺きで、農家風の構えをもっているが、絵様舟肘木や化粧たるきにかつての寺坊としての格式を示している。旧観坊は、慶安2年(1649)書上帳に見えるほか、寛文・元禄・宝暦の書上などに記録されている古い寺坊の1つである。建築年代は、江戸時代末期と推定されている。昭和50年・51年の両年にわたり解体修理が行われた。 中能登町教育委員会 」とあります。

石動山天平寺: 石動山天平寺(石川県中能登町)が何時頃から信仰が始まったのかは判りませんが、崇神天皇6年(紀元前92年)に方道仙人が創建したとも、垂仁天皇(第11代天皇・在位:紀元前29年〜西暦70年)の御代、笥飯大臣が大宮坊を創建したとも、養老年間(717〜723年)に白山を開山した泰澄大師が創建したとも、養老元年(717)に智徳上人が創建したとも云われています。その後、伊須流岐比古神社と神仏習合すると共に、寺号を石動寺から天平勝宝寺に改め、真言宗の寺院となっています。平安時代末期に宣陽門院(後白河天皇の皇女)の祈願所として篤く庇護を受けるようになると寺運も隆盛し、能登半島を飛び越え周辺7カ国に影響力があり寺領4万3千石と大名並み石高を領しました。南北朝の動乱と戦国時代に兵乱により全山焼き討ちとなり衰微しましたが、江戸時代には再興され加賀藩前田家の庇護を受けています。明治時代の神仏分離令により、伊須流岐比古神社に信仰が集約され石動山天平寺は廃寺となっています。周辺には天平寺の跡や58坊とも呼ばれた複数の院坊跡などが残され、石動山一帯が国指定史跡に指定されています(現在、大宮坊の一部が復元されています)。

伊須流岐比古神社: 伊須流岐比古神社(石川県中能登町)は崇神天皇6年(紀元前92年)に大比古命が社殿を造営したのが始まりとされ、誉津別命(垂仁天皇の皇子)も行啓しています。その後、上記のように方道仙人、又は笥飯大臣、又は泰澄大師、又は智徳上人が創建した石動山天平寺(大宮坊)が別当寺院として神仏習合し、仏教色の強い神社となりました。格式も高く正三位、従二位と神位を上げ、平安時代後期に成立した延喜式神名帳には式内社として記載され、伊須流岐比古神社は気多大社石川県羽咋市)に次ぐ能登国二之宮に格付けされました。中世は能登国守護の畠山家の庇護になっていた関係で、畠山家が滅んだ後の天正10年(1582)に旧遺臣達が伊須流岐比古神社に集結し、当時の領主だった織田家に対して反乱を起こした為、当地に配された前田利家などの家臣に鎮圧されています。伊須流岐比古神社はその兵火により大きな被害を受けましたが、翌年となる天正11年(1583)には正親町天皇から再興の勅命が発令され、それを受けた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が再興を図っています。江戸時代に入ると加賀藩(藩庁:金沢城)前田家の庇護となり、社領の安堵や社殿(本殿・拝殿は石川県指定文化財)の造営が行われています。明治時代の神仏分離令により、別当寺院だった石動山天平寺が廃寺となり、郷社に列し、境内周辺は国指定史跡に指定されています。

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