中能登町(歴史)概要: 中能登町は古くから中央との繋がりが強い地域で円墳としては北陸最大級の規模を誇る親王塚(崇神天皇の皇子能登臣大入杵命の陵墓)や雨の宮古墳群では31基の古墳が発見されています。
能登部神社や能登比盗_社、宿那彦神像石神社、伊須流岐比古神社、久灯芟テ神社、天日蔭比盗_社などの古社が点在し、特に伊須流岐比古神社は能登国二ノ宮として崇敬を集め、別当の天平寺と共に石動山山岳信仰の一大拠点となり白山信仰と双璧をなす一大霊場となりました。
伊須流岐比古神社の最盛期には社地50町4方、知行石高4万3千石、宗徒3000人、僧坊360余坊を擁していましたが天正8年(1580)の織田信長の能登侵攻により社地が大幅に削られ、新たに領主となった前田利家とも対立し天正10年(1582)には全山焼き討ちとなり荒廃、後に許され再興するものの旧観に復するまでには至りませんでした。
江戸時代に入ると加賀藩に属していましたが当初は加賀八家の1家に数えられた長氏が3万3千石を領していました。
長氏は鎌倉時代から土着した国人領主だった為、加賀藩の中でも治外法権的な配慮がなされてきましたが、寛文7年(1667)に長氏の内紛(浦野事件)が起り、石高は認められたものの特権が剥奪され加賀藩領として組み込まれることになりました。
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