山中温泉(石川県加賀市・観光)・歴史:概要 山中温泉(石川県加賀市)は奈良時代の天平年間(729〜748年)、高僧として知られた行基菩薩が加賀行脚の際、紫雲がたなびく霊地を見つけ近づくと、湯の精霊と思われる老僧から病を直す霊泉の湧き出る場所を教わったと伝えられています。承平年間(931〜938年)に兵乱の兵火により行基縁の医王寺をはじめ山中温泉も焼失し荒廃しましたが、鎌倉時代の建久年間(1190〜1198年)、将軍源頼朝の命により加賀の賊徒を平定した長谷部信連が山中の地頭に任ぜられとこの地に赴き、傷を負った白鷺が傷を癒しているにを見つけました。すると薬師如来の化身と名乗る1人の女性が現れ山中温泉の復興を懇願すると、神意と悟り再興に尽力をつくしました。
山中温泉に境内を構える国分山医王寺は行基菩薩が源泉を発見した際に、温泉の守護仏として薬師如来を自ら彫刻し一宇を設けて安置したのが始まりとされ、温泉街と同様に長谷部信連が再興され、信仰が広がると蛸薬師(京都府京都市中京区:永福寺)、一畑薬師(島根県出雲市小境町:一畑寺)と共に日本三薬師の一つに数えられています。
長谷部信連は以仁王(後白河天皇の第3皇子)の忠実な家臣で以仁王が平家打倒を画策した際も共に戦い、捕縛された後も忠義を貫いた為、平清盛はその意気を感じとり流罪に留めています。鎌倉時代に入ると源頼朝に従い能登国珠洲郡大家荘の地頭に抜擢され、後裔は長氏を称して能登国を代表する国人領主となっています(江戸時代は加賀藩前田家に従い加賀八家に数えられました)。
山中温泉と長谷部信連の関係性を示す客観的な資料はありませんが、医王寺の境内には長く信連を武建霊神として祭る祠が設けられ(明治時代の神仏分離令を機に長谷部神社が創建)、長氏の家紋である九曜紋を掲げる温泉宿も複数存在する事から、草創十二氏とは長氏の一族や家臣の流れを汲む可能性はあるかも知れません。
南北朝時代に能登半島で激しい戦乱が起こり当時の当主長九朗左衛門盛連がそれを避ける為に加賀国江沼郡塚谷保(山中温泉)に移り、建武2年(1335)には黒谷城(山中城)に入ったとされている事から、この間に上記の伝承が流布されたとも考えられています。
その後、山中温泉には病に効く霊泉との噂が広がり全国から湯治客が集まるようになり、文明5年(1473)、吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)で布教活動を続けていた蓮如上人は湯治を兼ねて大内峠を越えて山中温泉に来錫し、その際、菅谷村の理助が弟子となり法名教願として後に徳性寺を創建しています。
又、世話人なった住民の為に御経を書いた際、茣蓙の上で書かれた事からその跡が残り「虎斑の御名号」として伝わり信仰の対象となっています。戦国時代には一向一揆衆が立て籠もった黒谷城を永禄10年(1567)には朝倉義景の侵攻により焼き払われ、天正年間に再び一揆衆により再築されますが、天正8年(1580)に織田信長の北陸侵攻により家臣である柴田勝家が攻め立て落城しています。その際、山中温泉の温泉街も大きな被害があったと思われ、勝家より保護されています。
江戸時代に入ると、隣の山代温泉が歓楽街的に発展したのに対して山中温泉は湯治場的な要素が強かったとされ、元禄2年(1689)に奥の細道で当地を訪れた松尾芭蕉も、情緒を楽しむ為に山代温泉を避け、山中温泉を選択したとも云われています。
松尾芭蕉は事の外山中温泉を気に入り、8泊9日という長期間湯治を楽しみ、天下の名湯として全国的に知られていた草津温泉(群馬県草津町)と有馬温泉(兵庫県神戸市)と共に「扶桑の三名湯」として讃え、「山中や 菊は手折らじ 湯のにほひ」の句を残しています。
江戸時代後期に温泉の功能の番付表である「諸国温泉功能鑑」でも「加州山中の湯」として西之方前頭筆頭に格付けされ日本経済新聞にて連載されていた日本百名湯に選定されました。温泉街にある共同浴場は総湯とされる「菊の湯」で現在も地域住民から広く利用され社交場の1つになっています。
【温泉街】−山中温泉の温泉街は古く懐かしい印象を受ける町並みと、町づくり的な手法の元に明るい印象を受ける町並みが混在する温泉街です。温泉街の下には鶴仙渓と呼ばれる景勝地があり散策路が整備され、蓮如上人や松尾芭蕉の縁の地が点在しています。
・山中温泉泉質−カルシウム・ナトリウム - 硫酸塩泉
・山中温泉効能−神経痛、筋肉痛、関節痛、切り傷、冷え性、打ち身、くじき、火傷、皮膚病、慢性消化器病
・山中温泉効能(飲泉)−胆石、慢性便秘症、肥満、糖尿病
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