末森城(宝達志水町)概要: 末森城の築城年は不詳ですが戦国時代末期は七尾城主畠山氏の家臣土肥親真が城主となっています。天正5年(1577)に時点で土肥親真は既に上杉家の家臣となり、同年の上杉謙信が七尾城を攻めた際には協力していた思われます。
天正8年(1580)織田信長に能登が制圧される土肥氏は織田家に降伏し、七尾城に配された織田信長の側近である菅屋長頼に従い気多大社の社領の安堵や社頭の修復などが行われています。長頼が安土城(滋賀県近江八幡市安土町)に戻ると新たに領主となった前田利家の支配下に入ります。
天正10年(1582)、織田信長が本能寺の変で没すると羽柴秀吉側の前田利家と佐々成政(旧織田家家臣・越中富山城の城主)が対立が激化し領土が接する末森城が最重要拠点となり、末森城には重臣である奥村永福を城主として守りを固めます(土肥親真は賤ケ岳の戦いで討死した為、跡を継いだと思われる土肥次茂が副将として配されています)。
天正12年(1584)、佐々成政は1万5千の兵を率いて突如末森城を急襲し2の丸まで攻め込まれますが、奥村永福を含む守備隊500余人は末森城を死守します。援軍として2千5百余人の前田軍が末森城に入ると形成が逆転し佐々軍は自国に引き上げます。秀吉によって越中国が統一され前田家の領土となると次第に末森城の重要性が失われ、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となります。
末森城は標高138.8mの末森山に築かれた連郭式山城で本丸を中心に二の丸、三の丸、馬場、若宮丸などの郭で形成され要所には空堀を配していました。現在でも郭の形状や土塁、空堀が残り平成3年(1991)に石川県指定史跡に指定されています。
末森城:上空画像
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