【 概 要 】−菅屋長頼は織田家の家臣だった織田信房の子供として生まれました。幼少の頃から織田信長に仕えていたようで、永禄12年(1569)の伊勢大河内城攻めの際には尺限廻番衆の一人として数えられていました。長頼は戦場で指揮を執ったという記録は少なく一般的な戦国武将というような印象が薄く、後年は現在でいう行政官、外交官、監察官のトップを兼任した人物と言っても過言が無い程の権力を有し、信長の側近の中でもかなり信任されていたようです。織田信長は石山本願寺や比叡山延暦寺との対立から既存の宗教への信心が無いような印象ですが、菅屋長頼の行動から見ると領内の社寺に対して篤く保護し、特に越前国の剣神社(福井県丹生郡越前町織田)に対しては柴田勝家や前田利家、佐々成政、不破直光などにかなり極め細かく指示を出しています。
天正6年(1578)に上杉謙信が死去すると家中が乱れ(御舘の乱)、七尾城は上杉方の鯵坂長実が城主として采配していたものの、天正7年(1579)に上杉方から離反し信長に臣従した遊佐続光・温井景隆・三宅長盛が占拠、一方、早くから織田信長に内応した長連龍は遺恨から能登侵攻を継続し、形式的には織田方同志の対立が続いています。天正8年(1580)七尾城方は戦局が不利と見るや三宅長盛を信長に派遣した事で七尾城を開城を条件に両者が停戦となっています。
越中国と能登国は形式的には織田領になりましたが、不安定要素が強かった事から信任がある菅屋長頼が担当に採用されたと思われます。長頼は能登国の宗教的な中心を担った能登一宮である気多大社に対し羽咋郡内に織田家に従った土肥親真分に領地を認めるよう指示しています。土肥親真分に対しては気多大社の動向を探らせる一方で社殿の造営などを積極的に行うよう指示し、硬軟織り交ぜて能登国に影響力が強い気多大社を注視していた事が窺えます。
天正9年(1581)、直接、越中能登両国の支配体制の強化を図る為に菅屋長頼が七尾城に入った際には遊佐続光・盛光父子が逃亡、温井景隆・三宅長盛兄弟は石動山に退去しその後、上杉景勝を頼り越後国に逃亡しています。長頼は織田家に対して不穏な動きを見せた越中の国人領主である寺崎盛永を攻め捕縛、長連龍によって捕縛された遊佐続光・遊佐盛光・伊丹孫三郎は信長の命により七尾城で処刑しました。
一方、御舘の乱を制した上杉景勝とは越中国の支配を巡り複数回書状の遣り取りが行われ、景勝側からは適当な地域で越中国を分断し和睦したい思惑があったようです。長頼がその回答を避けていると、一部の上杉勢が越中国の織田方の城を急襲した事で和睦の話は立ち消えとなり、織田方の越中一国支配が濃厚となっています。長頼はさらに、戦略的に不必要な城や、反乱分子に利用されそうな城を次々と破却、これにより概ね、能登国の統一が成され、協力的だった長連龍と気多大社に対しては安堵状を発布しています。一方、非協力的だった石動山(現在の伊須流岐比古神社)は寺領5千貫を取り上げ、改めて1千貫を安堵しています。長頼は気多大社の管理などを家臣である岩越吉久に一任し安土城に帰城、天正10年(1582)の本能寺の変では織田信忠と共に非業の死を遂げています。
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