【 概 要 】−土肥親真の誕生年や父親、母親などは不詳、天文22年(1553)に越中・能登国守護である畠山家の家臣同志の権力争いである大槻・一宮の合戦、当事者の一人遊佐続光を保護した事から、元々は畠山氏に属する国人領主だったと推定されています。土肥親真が築いたとされる末森城(石川県羽咋郡宝達志水町)ですが15世紀中頃から後期にかけての遺物も発見されている事から親真が城主となる以前から存在していた可能性が高く、そもそも建長年間(1249〜1255年)に土肥頼平が越中国(現在の富山県)の地頭職として配されたのが越中土肥氏の始まりとされている為、どの段階で親真が末森城の城主になったのかは判りません。
戦国時代に畠山氏が衰退すると家臣団は台頭してきた上杉家方と織田家方に分れ対立、親真は親上杉派だったと思われますが、その後畠山家から離反して上杉家の家臣になったようで、天正5年(1577)に上杉家旗下の武将を纏めた「上杉家家中名字尽」に土肥但馬守の名が連ねています。同年には上杉謙信が七尾城(石川県七尾市)に侵攻している為、当然上杉方に協力したと思われ城将として末森城には斎藤朝信が配されたものの、その後は親真に返され概ね4万石程度の石高だったようです。
天正6年(1578)に上杉謙信が死去すると上杉家の家督を巡り「御舘の乱」が発生し親真は上杉景勝を支援したようです。天正7年(1589)上杉家の弱体化から織田方に攻められるようになると、親真は景勝に援軍を要請したようで、その返答と思われる書状には金沢御坊の下間頼純と協力し(末森城を死守)するように要請されています。しかし、頼み綱だった金沢御坊も織田方に落ち天正8年(1580)には柴田勝家に末森城を攻められ降伏しています。
織田家に降伏後は、七尾城に派遣された菅屋長頼から信任を得たようで、天正8年(1580)8月23日には気多大社(石川県羽咋市)を通じて旧領の一部が領地として安堵されています。その後は親真を通して気多大社の社領の安堵や、社頭の修理などが依頼され、天正9年(1581)には自ら気多大社に社領を寄進しています。菅屋長頼が安土に戻ると、能登国は前田利家に与えられた為、親真は前田家の与力として引き続き末森城の城主を維持し利家の正室芳春院(まつ)の姪を妻として迎える事で前田家からも信任を得ています。天正11年(1583)に発生した賤ヶ岳の戦いでは前田家の先鋒として重きを成しましたが討死し壮絶な最期を迎えています。
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