白山街道(鶴来街道)

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白山街道(金沢城〜勝山城)
【白山街道】−白山街道(鶴来街道)は加賀藩の本城である金沢城城下町と、勝山藩の本城である勝山城の城下町を結ぶ街道で、信仰の対象となった白山の登拝口である旧吉野谷村と旧白峰村が街道沿いにあった事から修験者や信仰者が多く利用しました。白山には白山三馬場と呼ばれる3つ拠点があり、その内の加賀馬場である白山比盗_社とは街道沿いにある越前馬場である平泉寺白山神社も勝山城下から程近い距離に鎮座しています。街道は白山信仰が盛んだった中世には存在していたと思われますが明暦年間(1655〜1658年)には加賀藩2代藩主前田利常(前田家3代目当主)により本格的な整備が行われ、概ね寛文8年(1668)に竣工したとされます。

【金沢城・寺町】−金沢城の城下町には防衛の観点から3つの寺院群が町割され、1つは北国街道の北の出入口の防衛と金沢城の鬼門鎮護を担った卯辰山山麓寺院群、金沢城の背後の防衛を担った小立野寺院群、そして加賀藩主前田家の霊廟がある野田山を結ぶ野田道と白山街道(鶴来街道)口の防衛を担った寺町寺院群があります。寺町寺院群には現在も70近い寺院(保存地区内には52カ寺)が境内を構え往時の町割が良好に残されています。町並みも寺院の土塀や門、敷地内の本堂などの堂宇、町屋建築などが景観を形成し、大変貴重な事から国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。又、卯辰山山麓寺院群に隣接する東山ひがし(東茶屋街)も当時の茶屋街の町並みが色濃く残され国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。

【鶴来町】−鶴来町は白山七社、本宮四社に数えられる金劔宮の門前町として形成された町で白山比盗_社(加賀馬場の中心的な神社)の門前町が衰微すると事実上、当地域の中心として発展しました。周辺の物資の集積場、市場の開催、白山神社及び白山登拝者の宿泊や休息場などで賑わい、産業としては葉煙草栽培が主産業となりました。明治時代以降も中心部は極端な近代化が行われなかった為、町屋建築なども点在しています。

【旧吉野谷村】−旧吉野谷村は白山の登拝口と共に加賀藩領と天領との境界線に近い事から重要視されました。当初は吉野に関所が設けられましたが、関所周辺には細かな道が多く、関所を通らず迂回して通過する人が多くなった為、寛文元年(1661)に木滑口留番所が設けられています。

【旧白峰村】−旧白峰村の中心部は中世以降に発達した白山信仰の越前口(平泉寺白山神社)が管理するる登拝口にあたり、往時は修験者や参拝者が宿泊や休息で利用した場所です。特に江戸時代中期以降には一般庶民にも信仰が広がり、行楽嗜好も加えて大きく栄えました。一方、主産業として養蚕や製炭、焼畑などが発達し、特に養蚕は特異な建築様式が必要とした事から現在見られるような町並み景観が創り上げられました。集落の中心的な寺院である林西寺は白山が明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃された際に仏像や仏具を引き取った寺院で、豊富な寺宝を所有しています。旧白峰村の中心部は「白山市白峰伝統的建造物群保存地区」に選定されています。又、近くにある石川県立白山ろく民俗資料館には茅葺屋根の古民家などが移築保存されています。

【勝山城下】−勝山は勝山藩の本城が置かれた勝山城の城下町として発展しました。勝山城は天正8年(1580)に柴田勝安(佐久間盛次の三男、柴田勝家の養子)によって築かれた城で、江戸時代初期にかけては短期間で城主が変わりましたが元禄4年(1691)に小笠原貞信が勝山藩に入封すると、以後、小笠原家が藩主、城主を歴任して明治維新を迎えています。城跡は明治時代に廃城となり、その後、縄張りを略無視するように都市開発された為、見事に何も残っていません。城下町の方は、良好な町屋建築が点在する他、小笠原家の菩提寺である開善寺などがあります。郊外には白山信仰の越前側の拠点だった平泉寺白山神社が境内を構え、参道や境内などは中世の雰囲気が色濃く残っています。

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