能登街道(七尾街道)

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概要・歴史・観光・見所
能登街道(石川県)概要: 能登街道は北陸街道の津幡宿で分岐して能登街道(石川県)宇出津に至る街道で、古代は七尾付近に能登国の国府が置かれていたので、官道として整備されました。北陸道から離れてから一番最初の宿場町である高村宿は加賀国と能登国の国境に近かった事から戦国時代は度々戦禍に巻き込まれた地域で、江戸時代に入ると幕府巡見使の御昼所として定められた為、宿場の有力者である米屋左五郎家と竹屋惣左衛門家、米屋助四郎家が本陣に準じる格式を得て邸宅が身分の高い人物に利用されています。馬数は概ね50〜40疋で口銭場や茶屋も設けられいました。飯山宿は概ね30〜40疋の馬が置かれ高札場や問屋場が置かれていました。高畠宿は比較的早くから宿場町として栄えていたようで、その後、周辺地域の中心的な存在となり多種多様な技術者や商人、医者などが集まり町並みを形成しました。近代交通網である国道159号線が高畠宿内を通過しなかった事から良好な町並みが残され往時の雰囲気が感じられます。七尾は古くから能登国の中心的存在で、中世は守護職をになった畠山氏の居城で守護所となった七尾城の城下町として発展しました。七尾城は難攻不落の名城とされましたが、上杉謙信の侵攻により落城し畠山氏の支配が終焉しました。前田利家が能登を与えられると、居城を七尾城から小丸山城に移すと、現在に近い町割が行われ寺院を集め、港湾を整備し商業都市としても発展しました。一国一城令により小丸山城は廃城になりましたが、その後も能登国の中心地としての地位は変わらず、北前舟の寄港地や交通の要衝によって多くの物資が集められ繁栄しました。田鶴浜宿は畠山氏が没落後、能登半島での実力者となった長氏の城下町として発展した町です。長氏は織田家の後、前田家に従いましたが、形式上は与力大名として半独立が認められ江戸時代初期まで、この体制が続けられました。宇出津は奥能登最大の港町として発展した町で、天然の良港として江戸時代には北前舟が出入し大きく繁栄しました。毎日の数百隻の舟が出入し町も毎日のように市が立ち、加賀藩も多くの出先機関を設けて重要視しました。

【 能登国分寺 】−能登国の国府の正確な位置は不詳ですが、現在の石川県七尾市府中町付近にあったと推定され、地名はそれに因むもので、同町に鎮座する印鑰神社は能登国府の政庁内に設けられた正倉(税を保管した倉庫)の鍵を御神体としている云われています。能登国分寺は七尾市の中心部からはやや離れた国分町と古府町の能登街道沿いに位置し、白鳳時代末期頃に創建された大興寺が、聖武天皇が全国に国分寺を設けた事により、承和10年(843)に能登国分寺に指定されました。朝廷の衰退と共に衰微しましたが、現在も礎石などが明確で南門が復元され公園として整備されています。

【 気多大社 】気多大社は能登国の立国に関わった神社とされ、能登国を開発したとされる大己貴命、又は気多大菩薩が祭られています。元々は石川県七尾市所口町ハ部に鎮座する能登生国玉比古神社(気多本宮)に祭られていたそうですが孝元天皇の御代に現在地に遷座したとされ、現在でも例祭には能登生国玉比古神社と気多大社との間で神輿渡御が行われています。気多大社の信仰は日本海の沿岸地域に広く分布し、能登国から他所に移住した一族が、旧地で祭られていた気多大社の分霊を勧請しその地の産土神として崇めたと思われ、顕著な例としては、越後国一之宮の居多神社(新潟県上越市)や越中国一之宮の気多神社(富山県高岡市)などが挙げられます。気多大社は格式が高く、能登国一之宮として歴代の国主や守護、領主、藩主から崇敬庇護を受け大きく発展しました。

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