石川門(金沢城)概要: 石川門は金沢城の三之丸搦手門にあたる門で、石川郡の方向を向いている事からこの名称が名付けられました。搦手門(裏門)といっても正面には兼六園(日本三名園)を控えた金沢城にとって重要視された門の1つで表門(一の門:切妻、鉛瓦葺、高麗門)、櫓門(二の門:入母屋、鉛瓦葺、外壁は大壁造り白漆喰仕上げ、潜戸付、唐破風出窓付)、2重櫓(2重2階隅櫓、木造2階建て、入母屋、鉛瓦葺、腰壁は海鼠壁、外壁は白漆喰、唐破風出窓付)、多聞櫓(続櫓:折曲り一重渡櫓、鉛瓦葺、塗籠造、白漆喰仕上、腰壁海鼠壁)、表門北方太鼓塀(延長5.0m、鉛瓦葺、海鼠壁)、表門南方太鼓塀(延長5.7m、鉛瓦葺、海鼠壁)、附属右方太鼓塀(延長148.1m、桟瓦葺、石落3箇所、各向唐破風造、鉛瓦葺、海鼠壁)、附属左方太鼓塀(延長94.4m、門一所付、桟瓦葺、石落一所、向唐破風造、鉛瓦葺、海鼠壁)が枡形で構成され、櫓や櫓門には石落し、1間ごとに鉄砲狭間が設けています。
金沢城は雪国ということもあり屋根には鉛で被覆した瓦(鉛瓦)が使用され(鉛瓦を採用には諸説あり、鉛と一緒に金銀を溶かし財産を隠したとも、戦さ時に瓦の鉛を溶かし鉄砲の弾にする為とも云われています)、雨や雪が当る腰壁には平瓦の目地を漆喰で固めた海鼠壁が採用されました。又、100万石の大大名の格式と威厳を示す為、唐破風や入母屋破風の出窓などを随所に設置し実践的かつ秀麗な建物になっています。
当初の石川門は前田利家が金沢城に入った時にすでに建てられていたそうですが宝暦9年(1759)の大火により全焼し、天明8年(1788)に加賀藩10代藩主前田治脩(前田家11代)により再建、寛政11年(1799)の大地震で大きな被害を受け文化11年(1814)に改修しています。現在の石川門は再建当時のもので、金沢城に残る数少ない遺構として大変貴重な事から昭和25年(1950)1月10日に国指定重要文化財(旧国宝)に指定されています。
石川門の案内板によると「金沢城の搦手門(裏門)として重要な位置にあり、河北門、橋爪門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれた。櫓と櫓を長屋でつないだ重厚な枡形門に造られている。宝暦の大火(一七五九)の後、天明八年(一七八八)に再建され、現在に伝わっている。 昭和二十五年(一九五〇)国の重要文化財に指定された。」とあります。
高麗門を簡単に説明した動画
石川県:城郭の動画の再生リスト
|