前田治脩:概要

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概要・歴史・観光・見所
前田治脩(金沢城石川門)

【 概 要 】−前田治脩は延享2年(1745)、加賀藩5代藩主前田吉徳と寿清院(夏:園田氏の娘)との子供として生まれました。治脩は10男だった事から延享3年(1746)には出家する事が決まり、宝暦6年(1755)には勝興寺(富山県高岡市)に入り、厳しい修行のうえ宝暦11年(1761)には得度して僧侶としての道を確実に歩んでいました。

しかし、相次いで兄達が亡くなり続けた為、明和5年(1768)9代藩主前田重教の命により還俗し、明和6年(1769)に金沢城(石川県金沢市)に戻りました。明和8年(1771)重教の隠居に伴い前田家の家督を継ぎ10代藩主を就任しています。寛政4年(1792)には加賀藩の藩校である明倫堂と経武館を開校させ新井白蛾などの学者を招き家臣の教育に尽力しています。享和2年(1802)隠居、文化7年(1810)死去、享年66歳、戒名:太梁院殿俊山コ英大居士。

前田治脩の金沢藩での実績は、宝暦9年(1759)に発生した金沢大火により類焼し金沢城に大きな被害を受けると、天明8年(1788)に石川門(国指定重要文化財)などを再建、天明7年(1787)には前田重教の命により気多大社の本殿(国指定重要文化財)、摂社白山神社本殿(国指定重要文化財)、神庫(石川県指定文化財)、随身門(石川県指定文化財)を造営しています。

寛政6年(1794)には兼六園に藩校を設けた際、その鎮守社として菅原道真の分霊を勧請し金沢神社を創建、寛政7年(1795)には勝興寺の本堂を再建、寛政8年(1796)伊東彦四郎の懇願により愛本新用水(富山県:入善町・黒部市)開削工事を許可(鎮守社である天満宮では前田治脩が祭神として祭られています)、寛政8年(1796)に火災で焼失した大徳寺芳春院(京都府京都市北区紫野大徳寺町)を寛政10年(1798)に再建、文化3年(1806)に四十万八幡神社を現在地に勧請し社殿を造営しています。

金沢城(石川門):写真
前田治脩と縁がある金沢城の石川門 前田治脩と縁がある金沢城の石川門 前田治脩と縁がある金沢城の石川門 前田治脩と縁がある金沢城の石川門
兼六園:写真
前田治脩と縁がある兼六園の霞ヶ池 前田治脩と縁がある兼六園の鶺鴒島 前田治脩と縁がある兼六園の噴水 前田治脩と縁がある兼六園の瓢池・翠滝
気多大社:写真
前田治脩と縁がある気多大社玉垣越に見える本殿と幣殿 前田治脩と縁がある気多大社玉垣越に見える若宮神社 前田治脩と縁がある気多大社境内社である白山神社 前田治脩と縁がある気多大社境内背後に建立されている校倉造の神庫



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