・動橋の集落的発生時期は不詳ですが、古くから交通の要衝だったようで、文明7年には蓮如上人が吉崎御坊に帰る途中に当地に屋敷を構えていた桝屋小右衛門家で宿泊したとされます。
腹を空かせていた蓮如上人が粽を求めると、性悪の母親が石を笹で包んで投げ与え、これを食べる事が出来たなら宿を貸そうと笑いながら話しました。
蓮如上人は石を包んでいた笹の葉を庭先に突き刺すと、そこから根がみるみる広がり青葉が茂った事から母親は改心し、小右衛門と共に蓮如上人の弟子となり「篠の道場」を開いたと伝えられています。
文明11年には京都の聖護院門跡である道興が当地を訪れ、著書「廻国雑記」で当地の様子が記され、さらに「ゆきくれて ふめばあやうき いぶりばし いのちかけたる 波のうへかな」の歌を残しています。
延徳3年には冷泉為広も当地を訪れ、「越後下向日記」に記しています。
江戸時代に入り、北国街道が改めて開削されると宿場町として整備され、駅馬14疋が常備されました。
本陣は橋本家が歴任し、伝馬肝煎役は九右衛門や七右衛門等の名が見られ、米屋七右衛門や、中屋、栗屋十三郎、十兵衛宿等が旅籠を営んでいました。
本陣の橋本家は平家と関係が深い家柄とも云われ、正保2年に初代三右衛門が現在地に遷り住み、当初は「平岡」姓でしたが三代平四郎の代に「橋本」姓に改姓しています。
加賀藩6代藩主前田宗辰が動橋宿を利用した際、本陣職に命じられ、享和2年には十村役となっています。
橋本家は農家である一方で、肥料や質屋等を生業として、宝暦10年からは酒造業を創業、明治天皇の北陸巡幸の際には御休息所として利用されています。
動橋宿は北陸街道と山代街道が分岐すると交通の要衝として重要視され町割りされる際には、七曲りと呼ばれる複数のクランク(桝形)がありました。
又、舟運の拠点でもあった為、物資の集積地となり、特に北海道の鰊粕が搬入された事で、肥料を生業とする業者が多かったとされます。
北国街道:宿場町・再生リスト
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