・大聖寺は、白山信仰の加賀国側の拠点となった白山比盗_社に属する白山五院に数えられた大聖寺の門前町として発展したと思われます。
大聖寺が何時頃開創し、何時頃廃寺となったのかは判りませんが、長寛元年に成立したと推定される「白山之紀」にも白山五院として、柏野寺、薬王院温泉寺、極楽寺、小野坂寺と共にその名が記されており、平安時代から中世にかけて繁栄したと推定されています。
鎌倉時代の13世紀中頃になると藤原南家工藤氏の流れを汲む伊豆国発祥の氏族である狩野氏の一族が福田庄の地頭として入部し、菅生神社の社領を管理するようになり、当地を代表するような豪族に成長し大聖寺城を築城、当地はその城下町として整備されたと思われます。
建武2年に発生した中先代の乱では復権を画策する北条家に従った名越時兼が当地に侵攻、狩野一族は大聖寺城に立て籠もり、撃破しています。
南北朝の動乱時には北朝方に加担した津葉五郎が大聖寺城を接収したと見られ、南朝方の畑時能に加担した加納一族が攻め落としています。
戦国時代に入ると大聖寺城は一向一揆衆の拠点として利用された為、天文24年に越前国守護職の朝倉家の一族である朝倉家宗滴から攻撃を受け落城しています。
江戸時代に入ると加賀藩に属し、当初は大聖寺城には城代が派遣されていましたが、元和元年に一国一城令により廃城となっています。
寛永16年に前田利治が周辺7万石を加賀藩から分知され大聖寺藩を立藩、大聖寺城の麓に陣屋を構え、当地は陣屋町、北国街道の宿場町として町割りされました。
現在の本町は多くの旅籠が軒を連ねていた事から旅籠町と呼ばれ、中町や京町が宿場町の中心として、本陣等が設けられ、京町に西端には時鐘堂が設置されています。
永町は近郷の村々から住民を集めたと思われ、屋号として出身地を掲げる家が多く見られるのが特徴の一つです。鍛冶町には鍛冶職人、山田町は繊維に携わる家が集められ、本町や荒町には商家が軒を連ねています。菅生町や天神下町は菅生神社の門前町だった町で、陣屋町の拡張に伴い、組み込まれたと思われます。
又、大聖寺藩の藩都でもあった事から藩庁が置かれた大聖寺陣屋の近隣には家老や重臣、仲町と鷹匠町には上級武士、鉄炮町や金子町、木呂町、弓町等には足軽、徒士等の下級武士が居を構えました。
町割りに際には多くの神社や寺院も集められた事から寺町には門や土塀、生垣等が連続する町並みが見られます。現在でも随所に歴史が感じられる町屋建築が点在し、往時の町並みの雰囲気が残されています。
北国街道:宿場町・再生リスト
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