竹橋宿

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竹橋宿:略データ
・場 所・石川県河北郡津幡町竹橋
・概 要・竹橋は難所である倶利伽羅峠の麓に位置し、寿永2年に発生した倶利伽羅峠の戦いでは木曽義仲の重臣である樋口次郎兼光が竹橋口から平家軍の背後に攻め上がったと伝えられています。

交通の要衝だったようで、延徳3年には細川家12代当主細川政元と上原元秀が竹橋に境内を構えている教願寺で宿泊しています。

江戸時代に入ると加賀藩に属し、正式に北国街道が開削されると慶長20年には藩から宿駅として指定され、宿場町として整備されました。

竹橋宿は倶利伽羅峠を控えていた事から身分の高い人物が宿泊や休息で利用する本陣をはじめ、旅籠、伝馬問屋が整備されています。

本陣だった細川家は屋号として「七野屋」を掲げ、江戸時代後期以降は酒や醤油等の醸造業や金融業を生業とし、天保4年には伝馬肝煎や算用聞等の要職も兼任しています。

文久3年、11代将軍徳川家斉の21女で加賀藩13代当主前田斉泰の正室である溶姫が御国入りの際、竹橋宿本陣の細川家で休憩しています。

溶姫は長く江戸本郷の加賀藩上屋敷内の溶姫御殿で生活していましたが、文久の改革により参勤交代制が緩和され、それに伴い御国入りする事になりました。

帰国の費用は幕府から3万5千両を借用し盛大な行列を組んで金沢城二之丸御広式に造られた御殿に入っています。

細川家には明治天皇の北陸巡幸の折、休息所として利用され、岩倉具視や大隈重信、徳大寺則実等の要人も利用した由緒ある建物でしたが、明治16年に火災により焼失しています。

その後、向かい側の敷地に再建、跡地は倶利伽羅役場が設けられ、明治20年には道路元標が建立されています。

教願寺の梵鐘は江戸時代中期に名工として知られる宮崎彦九郎義一が制作したもので、総高123cm、口径67.5cm、貴重な事から津幡町指定文化財に指定されています。

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