・当地は古くから交通の要衝で、律令制下で北陸道が開創されると近世の宿駅に当たる駅家、朝倉駅があったとも云われ馬5疋が常備されていました。
地名は朝倉臣である橘左近将監が本貫地としていた事に由来しているとも云われ、ゴルフ場の一角に築かれた橘氏館は橘氏の居館とされます。
橘氏館跡は弘治元年に越前守護職朝倉家の一族である朝倉宗滴が加賀国に侵攻した際、朝倉家の家臣 堀江景忠が陣を敷いたとされています。
平安時代は橘の庄と呼ばれ、現在の京都府京都市右京区梅ヶ畑栂尾町に境内を構えている栂尾山高山寺の荘園だったようです。
上橘宿には古くから宿場役人を歴任し茶屋を経営していた銭亀氏の屋敷があり、文明3年には禅圧により吉崎御坊を布教の拠点としていた蓮如上人が当地を訪ねており、その際、銭亀氏の屋敷の庭園を近江八景に倣い作庭したと伝えられています。
文明18年に室町時代の僧侶で聖護院門跡である道興が、聖護院末寺の掌握を目的に東国を廻国した折、橘宿を訪れており、その際詠った「旅たつも さつきの後の 身なりけり 秋に宿かせ たちばなの里」の歌が著書である「廻国雑記」に収録されています。
長享2年に江沼郡で大規模な一揆が発生し、加賀国守護の富樫政親が窮地に追い込まれ、それを救援すべく越前の朝倉勢が加賀国に進軍すると橘宿付近でそれを阻止すべく集まった一揆衆と激しい戦いが行われています。
江戸時代に入り改めて北国街道が開削されると宿場町に指定され、特に福井藩との藩境が近かった事から大聖寺藩の「橘村御使者改番所」が設置されています。
旅籠等が置かれた上橘宿は、明治時代の近代交通網の整備によって廃れましたが、駅馬の飼養を担った下橘宿は現在でも古民家が多く落ち着いた町並みが残されています。
北国街道:宿場町・再生リスト
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