・月津の地は古くから舟運の拠点や交通の要衝だったとされます。
当初の集落は牛の端と呼ばれた茶臼山の裾野にあり「槻津」や「着津」等と呼ばれていました。
茶臼山の麓には弥生時代の茶臼山遺跡や茶臼山古墳、奈良時代の茶臼山祭祀遺跡等の史跡が点在し、人々が生活していた痕跡が見られます。
文明9年に開創した興宗寺は福井興宗寺五世円慶が隠居寺として開山した真宗大谷派の寺院で、円慶は蓮如上人に帰依、吉崎御坊開創にも尽力し、山号の「牛鼻山」を賜ったと伝えられています。
又、宿場の南端に境内を構え、立派な門構えだった事から関所と勘違いした旅人が、門の前に御座を広げ夜を明かしたとの逸話が残されています。
室町時代に入ると「官地論」や「明智記」、「朝倉始末記」、「北陸七国志」等に当地の地名が散見されるようになり、度々、戦場になったようです。
江戸時代に入り北国街道が開削されると宿場町として整備され、当初は近隣22ヶ村を治め十村役に任ぜられた西家が大きな権限があったとされます。
特に西彦四郎は興宗寺から礼抜家に至る間口88m、奥行44mの広大な屋敷を構えていましたが、延宝7年に大聖寺藩が行った矢田野用水の開削と新田開発に反対した事から御家断絶となっています。
斬首の際には普段から御世話になっていた22ヵ村の村人達が集まり嗚咽した声が村中に響き渡ったと伝えられています。
月津宿は大聖寺藩の北方の境になった事から重要視され、駅馬は22疋が常備、旅人や荷物の運搬に当てられていました。
当初の問屋は甚四郎家、半右衛門家、道場新七家、矢田二平家、湊家、宗与門家、和田猪之松家がその職を担っています。
北国街道:宿場町・再生リスト
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