・野々市は古代の官道である北陸道の経路上にあり、その付近には公共施設と思われる大型建物の痕跡が残されています。
白鳳時代には末松廃寺が開創され、発掘調査により金堂と塔を有する「発起寺式」と呼ばれる伽藍配置を採用した大寺院だった事が判っています。
平安時代末期には加賀国の在庁官人の後裔と思われる富樫氏が記録に現れるようになり、弘長元年には富樫家尚が澄海阿闍梨を招いて大乗寺を開創、さらに正応2年に永平寺の徹通を招いて曹洞宗寺院に改め、加賀国の曹洞宗寺院の中心的な存在となっています。
富樫氏は南北朝時代には加賀国の守護職に任ぜられ、野々市に館を構え、守護所を設けた為、当地は加賀国の中心的な役割を果たしました。
又、馬市を許可する等、産業育成にも尽力したと推定され、大いに賑わったと思われます。
しかし、長享2年に富樫政親が加賀一向一揆に高尾城の戦いで敗北すると、事実上一揆衆が加賀国を支配し、守護職の富樫家は傀儡となっています。
その後は一揆衆の傀儡化した富樫家と織田家に与したその一族との間で対立が激化し、天正8年には織田家の家臣である柴田勝家と佐久間盛政が当地まで侵攻し、野々市は焼き討ちとなり大きな被害を受けています。
その後、随時再興を図られ、江戸時代に北国街道が改めて開削されると加賀藩から宿場町に定められ、宿場内の街道沿いには周辺の村々から住民が集められ新たな町割りが行われています。
富樫家の屋敷神だった布市神社も元和元年に前田利常によって再興され寛文9年には宮田1500歩が寄進されています。
野々市宿は駅馬73〜87頭、役夫210人が定められ、藩内の北国街道の宿場町の中では4番目の規模を誇りました。
問屋肝煎の詳細は不詳ですが、瀬尾家が担っていたと考えられ江戸時代末期には町屋仁左衛門がその職に就いています。
現在も伝統的な町屋建築が点在し、中でも喜多家住宅が国指定重要文化財に水毛生家住宅と旧魚住家住宅が野々市市指定重要文化財に指定されています。
北国街道:宿場町・再生リスト
|