津幡宿

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津幡宿:略データ
・場 所・石川県河北郡津幡町清水
・概 要・津幡の地は古くから交通の要衝で、古代の官道である北陸道の経路だったと目されています。

平安時代末期には平家方の戦略的な拠点として重要視され、寿永2年に平維盛が津幡城の前身となる砦を設けています。

鎌倉時代に入ると都幡(津幡)小三郎隆家が井上庄の地頭に就任し、建久元年には津幡城に入部しています。

室町時代に入ると富樫家の支配下に入り観応2年には富樫氏春が津幡城で桃井直常方と戦っています。

戦国時代に入ると加賀国守護職の富樫家は没落し、加賀一向一揆衆が実質的に支配しましたが、天正年間には上杉謙信の侵攻を受け、天正4年には謙信が津幡城を七尾城攻略の拠点としています。

天正6年に謙信が死去し越後国内で大規模な内乱が発生すると、再び一揆衆が当地を掌握しましたが、今度は織田家の侵攻を受け、天正9年に織田家家臣で北陸方面の司令長官だった柴田勝家に攻められ津幡城は落城しています。

その後は前田家の支配下に入り、前田利家は弟の前田秀継を配したものの、天正13年に秀継が木舟城に本城を遷した為、津幡城は廃城となっています。

江戸時代に入り、改めて北国街道が開削されると津幡は宿場町として整備されました。

本陣(御旅屋)は戦国時代に末森城の戦いで前田利家に協力した松本家が歴任し、他藩でいう大庄屋と同格の十村役も兼任しました。

松本家の近くに境内を構える弘願寺は脇本陣格で、前田家が参勤交代で本陣に宿泊した際には家臣達は当寺を利用しています。

明治天皇が北陸巡幸で当地を訪れた際、弘願寺に設けられた御座所で昼食休憩所として利用されています。

本陣から津幡川を挟んだ対岸に屋敷を構える角屋(金子家)は脇本陣を担った家柄で、現在建物は失われましたが、庭園にあったタブノキだけは残され往時の歴史を伝えています。

俳人河合見風を輩出した河合屋理右衛門家は津幡宿で旅籠と米屋を生業とした豪商で、十村肝煎や加賀爪村肝煎も兼任し当宿で大きな権限を持っていました。

現在の屋敷は酒井家が所有し、建物は加賀藩時代の豪商木屋藤右衛門家の粟崎居宅から移築したものとされます。

八尾屋は越中八尾町と油や和紙を取引していた商家で、明治時代初期には大地主として知られるようになり金融業も生業にする等、大いに富を成しました。

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