・松任は加賀国石川郡山島郷に属し、石同村、四郎丸村、三丁町村の三村で構成されていましたが、承平5年に当時の国司である松木某氏が三村を合併し市を立てる任を担った事から「松任」と呼ばれるようになったとも云われています。
別説としては寛治5年に当時の加賀国の国司である松井氏が石同村、白丸村、三ツ屋村の三村を合併し「松任町」と名付けたとも伝えられています。
安元2年には加賀介近藤師高が松任城の前身となる館を設け、次第に城下町として発展したと思われます。
師高は後白河院の近臣である西光の長男として生まれ、安元元年に加賀守に就任すると、弟である近藤判官師経を加賀国に派遣し、加賀国の経営を任せています。
しかし、師経は国衙近くの鵜川湧泉寺とトラブルを起こし、それが白山三社八院宗徒2千人の蜂起に発展、さらに本山である比叡山延暦寺の僧兵も呼応した為、安元3年に師高は加賀守を解任され尾張国井戸田に流罪、師経は禁獄の刑に処せられています。
代わって寿永2年に松任十郎範光が入部し師高の居館を本拠地としています。
範光は加賀斎藤家の一族である林氏の一族で、地名に因み「松任」姓を掲げ、その後、本家筋の林家を凌ぐ勢力になったとされます。
松任氏は4代に渡って当地を支配し、室町幕府の奉公衆を担う等勢力を維持しましたが、その後は松任氏の一族とも、新田義貞の家臣結城三郎の後裔とも云われる鏑木繁常が松任城の城主となっています。
戦国時代に入ると加賀一向一揆の拠点となりましたが、織田家が加賀国を席捲すると徳山則秀や前田利長、丹羽長重が城主を歴任し、江戸時代初期に一国一城令により廃城となっています。
江戸時代に入ると加賀藩に属し、城下町は引き続き、北国街道の宿場町として賑わいを見せ、町年寄を歴任した鈴木家が寛保元年から松任旅館(本陣)御用を務めるようになっています。
又、松任は「朝顔や釣瓶取られてもらい水」の句を詠んだ加賀千代女の生誕地としても知られ、駅前には「千代女の里俳句館」が設けられています。
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