・伝承によると霊亀2年(716)に役行者が石動山に登拝したと伝えられています。伊須流岐比古神社の境内には役行者が祭られていた行者堂が創建され信仰の対象になっていたようで江戸時代末期の嘉永6年(1853)には加賀藩12代藩主で前田家13代当主である前田斉泰が能登巡見の際、石動山を訪れ参拝した記録が残されています。
現在の行者堂は天正10年(1582)に発生した石動山合戦の兵火で焼失し18世紀初頭頃に再建されたもので、明治時代初頭に発令された神仏分離令により伊須流岐比古神社の別当寺院だった石動山天平寺は廃寺、伊須流岐比古神社の仏教色も一掃される事となり、行者堂は明治7年(1874)に最勝講村に19円で払い下げとなりました。行者堂は最勝講村の鎮守である天神社の拝殿として再利用され、長く村人達に愛されたものの、昭和63年(1988)に拝殿が改築される事になり、歴史ある建物が失われる事を憂いた人々と天神社の氏子理解を得て、伊須流岐比古神社の旧地に戻される事になりました。
行者堂は拝殿として一部改造されていたものの、移築の際に旧形体に復元され、当時の姿に戻されています。ただし、本尊として祭られていたと思われる役行者像の行方は残念ながら判らないそうです。行者堂は江戸時代中期の御堂建築の遺構として貴重な事から昭和63年(1988)に中能登町指定文化財(建造物)に指定されています。 |