須須神社(珠洲市)概要: 須須神社は石川県珠洲市三崎町寺家に鎮座している神社です。須須神社の創建は崇神天皇の御代(紀元前97〜29年)に鈴ヶ岳(現在の山伏山)山頂に勧請されたのが始まりと伝えられています。
奈良時代の天平勝宝年間(749〜757年)に現在地に遷座、平安時代の貞観15年(873)に編纂された三代実録では従五位上に列し、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では式内社に記載されています。
寛弘元年(1004)良澄が高勝寺を創建すると神仏習合化(近代では三崎権現や三崎明神と称された。)が進み高勝寺は須須神社の別当として寺運が隆盛し多くの支院、坊を抱える大寺となり境内には七堂伽藍が建ち並びました。
須須神社は古くから北陸、奥能登の鬼門鎮護の神、日本海の海難鎮護の神、縁結びの神(一般的に高座宮・高倉彦神(男神)、金分宮・高倉神之后神(女神)の2つ神社が合わせて須須神社を指す場合が多い。)として広く信仰されました。
文治3年(1187)には奥州平泉(現在の岩手県平泉町)へ下向途中の源義経、弁慶一行が須須神社に参拝に訪れ航海安全の祈願をしたと伝えられています(願いが通じたのか大荒れだった海が静まり、それに感謝した義経は蝉折の笛を弁慶は短刀を須須神社に奉納しています)。
須須神社は歴代領主からも崇敬され応永10年(1403)に穴水城主長谷部頼連から社領が寄進したのをはじめ、能登国守護職の畠山家や加賀藩主前田家が庇護し、天正12年(1584)には前田利家が田地を寄進しています。
一方、文明10年(1478)には能登国守護被官である五井兵庫頭と高座宮(現在の須々神社)との間には社領の境界を巡って争いがあり、高座宮の神官だった大宮友永が守護職畠山義統に訴え勝訴しています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され須須神社として独立し高勝寺は廃寺、明治28年(1895)に県社に列しています。
須須神社の寺宝である鎌倉時代に製作された木造男神像五体は国指定重要文化財、境内の社叢は国指定天然記念物、古文書(73点)は石川県指定文化財にそれぞれ指定されています。
拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、正面千鳥破風、桁行4間、正面1間唐破風向拝付き、外壁は真壁造板張り。本殿は三間社流造、銅板葺き、桁行3間、張間2間、正面3間向拝付き外壁は真壁造板張り。祭神:天津日高彦穂瓊瓊杵尊、美穂須須美命、木花咲耶姫命、外三柱。
須須神社の文化財
・ 木造男神像(5躯)-鎌倉後期-像高56.7〜48.0p、檜材、一木造-国重文
・ 須須神社社叢-2万1172u-温帯・冷温帯の植生-国指定天然記念物
・ 須須神社文書 (73通)-平安〜江戸-能登国司庁宣など-石川県指定文化財
須須神社:上空画像
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