平時忠一族の墓(珠洲市)概要: 平時忠は桓武平氏高棟流(堂上平氏)である平時信の子供として生まれ、平清盛の継室である平時子の実兄として大きな権力を有し「平家にあらずんば人にあらず」と公言した人物としても知られています。
又、妹滋子は後白河天皇の女御となって高倉天皇を生み、清盛と時子の娘徳子は高倉天皇に入内し言仁親王(後の安徳天皇)を出産、その皇子の乳母が時忠の室である領子が担う関係にありました。
寿永2年(1183)に木曽義仲の京都侵攻により平家一門は要職を悉く解任され都落ちとなり寿永4年(1185)の壇ノ浦の戦いで敗北すると捕縛されました。時忠は地位の高さから本来ならば死罪になるところでしたが、三種の神器の内の1つ八咫鏡を守り献上、さらには妹を源義経に嫁がす事で死罪を免れ能登国に配流になったとされます(諸説有り)。
その後、文治5年(1189)に配所で死去したと伝えられています(後裔の則貞家の伝承では元久元年:1204年)。墓所は室町時代後半に整備された思われるもので、時忠の墓と伝わる最も背の高い五輪塔を中心に一族の墓が並び現在も後裔が墓守をしているそうです。
墓碑は全部で11基(時忠・時康・時盛・時成・時○・時経・時永・時政・時重・時秀・時宗)あり「平時忠卿及び一族の墳」として石川県指定史跡に指定されています(時忠の5男である時国が上時国家と下時国家の初代と云われています)。
平時忠卿及びその一族の墳:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-石川県-出版元:株式会社人文社
・ 現地案内板
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