永光寺(羽咋市)概要: 洞谷山永光寺は石川県羽咋市酒井町に境内を構えている曹洞宗の寺院です。永光寺の創建は正和元年(1312)瑩山紹瑾和尚が当時の能登国中川の地頭海野信直の妻である黙譜祖忍の招きにより開山したのが始まりと伝えられています。
黙譜祖忍は能登羽咋郡の地頭酒勾頼親の娘で海野信直と結婚、夫婦共に曹洞宗の高僧として知られていた瑩山紹瑾に帰依し文保2年(1318)には境内地を寄進しています(伝承によると現在の豊財院の境内付近に草庵を設け、瞑想していると一匹の白狐が出現し、霊地である当地に導いたと伝えられています)。
瑩山紹瑾は越前(現在の福井県)出身の豪族瓜生氏の長男として生まれ、8歳で永平寺に入り、徹通義介に師事し厳しい修行を重ね、大乗寺(石川県金沢市)の住職を担い、城満寺や常住寺を開山しています。
元亨3年(1323)、後醍醐天皇の勅願により道場として定められたことにより寺運が隆盛し最盛期には30余の堂宇、20余の支院を擁していました。特に南北朝時代に足利尊氏(室町幕府初代将軍)の発願した安国寺利生塔が当寺に置かれた事で能登国随一の禅寺としての地位を確立しました。
その後、応仁の乱の兵火により多くの堂宇、記録、寺宝などが焼失し一時衰退しましたが、能登国守護職となった畠山氏が再興、天正年間(1573〜1593年)の上杉謙信(関東管領、越後国守護職)の能登侵攻の兵火により再び衰退します。
天正10年(1582)に新たに領主(七尾城の城主)となった前田利家により再興されましたが寺領は20石に留まり総持寺(現在の総持寺祖院)の末寺に組み込まれる形となりました。
歴史が感じられるの永光寺の本堂
【 永光寺の伽藍配置 】−現在の永光寺の境内は正面に山門を配置し、本堂、庫裡、書院、方丈、浴室、僧堂、東司、鐘楼を回廊で結ぶという「永光寺方式」と呼ばれる伽藍配置となっています(永光寺伽藍配置は羽咋市指定文化財)。
永光寺山門は三間一戸、桁行3間、張間2間、入母屋、桟瓦葺、八脚二重楼門、外壁は真壁造り板張り、上層部高欄付、下層部左右には仁王像安置、「洞谷山」の山号額が掲げられています。
永光寺本堂は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺、平入、桁行8間、正面1間唐破風向拝付、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、内部の内陣には本尊となる釈迦如来像が安置されています。永光寺僧堂は木造平屋、寄棟、桟瓦葺、平入、桁行五間、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、腰壁は下見板張り、御堂建築の遺構として貴重とされます。
【 永光寺の文化財 】−永光寺には寺宝も多く鎌倉時代に瑩山紹瑾によって書かれたという洞谷山置文(附瑩山紹瑾所用木印)が国指定重要文化財に指定されています。
木造徹通義介坐像(室町時代作、像高104.5cm、桧材、寄木造、玉眼嵌入、下地布貼り、木造徹通義介坐像)、木造瑩山紹瑾坐像(室町時代作、像高112cm、桧材、寄木造、玉眼嵌入、下地布貼り、漆彩色)、木造明峰素哲坐像(室町時代作、像高109cm、桧材、寄木造、玉眼嵌入、下地布貼り、漆彩色)、木造峨山韶碩坐像(室町時代作、桧材、寄木造、玉眼嵌入、下地布貼り、漆彩色)、永光寺文書(巻子37巻:116通・1紙文書77通)・典籍類(56冊)が石川県指定文化財に指定されています(その他に羽咋市指定文化財に指定されてる仏像や絵画、工芸品、書跡、考古資料等多数所有しています)。
北陸三十三ヵ所観音霊場第22番札所(札所本尊:聖観世音菩薩・御詠歌:八房の 梅ぞゆかしき永光寺 大悲の恵み 永久に伝えん)。能登国三十三所観音霊場第13番札所。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。
永光寺:上空画像
八脚門を簡単に説明した動画
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