・津幡城は寿永2年に平維盛が家臣に命じて築かせた砦が前身とされます。当時は木曾義仲が挙兵し京都を目指し進軍中だった事から、見晴らしの良い当地に軍事拠点が必要だったと思われます。
その後、加賀国井家庄の地頭である都幡小三郎隆家が城主となっていましたが、隆家は地頭である事をいいことに不当の行為を重ね、領家の命令を聞かないばかりか税を搾取し領民に負担をかけ、一方で自身は地頭としての役割を行っていなかった事から、改善命令が発布されています。
南北朝の動乱時には加賀国守護の富樫家の支配下にあり観応2年/正平6年に発生した観応の擾乱の際には足利尊氏に従った富樫氏が津幡城に入り、足利直義に従った桃井直常の軍勢を迎え撃ち勝利しています。
戦国時代に入り加賀一向一揆衆が台頭すると、その拠点の一つとして利用されましたが、天正9年に織田信長の加賀侵攻により津幡城は落城しています。
当地域が前田領になると前田利家は対立していた佐々成政に対応する為、津幡城の整備を行い、弟である前田秀継を配しています。天正13年に秀継が木舟城に本城を遷すと津幡城の政治的な重要性が失われ廃城となっています。
現在は跡地の多くが津幡小学校の敷地として利用されている為、目立った遺構は失われています。
津幡城は貴重な事から昭和39(1964)年5月7日に津幡町指定史跡に指定されています。
津幡宿:動画
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