加賀八家本多家:概要

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加賀八家本多家(大乗寺)

【 概 要 】−加賀八家本多家の祖である本多政重は天正8年(1580)、徳川家康と徳川秀忠の側近だった本多正信の次男として生まれました。当初は同じく徳川家の家臣だった倉橋家の養子となっていましたが、その後、大谷吉継、宇喜多秀家の家臣となり慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは宇喜多隊として出陣し敗戦しています。戦後は福島正則、前田利長の家臣となり慶長9年(1604)に米沢藩主上杉家の執政直江兼続の娘於松の婿養子となり直江大和守勝吉に改称しています。

於松が死んだ後も兼続の養女阿虎(兼続の実弟大国実頼の娘)を後室と迎えましたが、この事から兼続と実頼が仲たがいをした為、次第に上杉家からは距離を置き慶長17年(1612)には前田家に帰参し3万石の高禄で家臣となっています。加賀藩前田家は徳川家に次ぐ石高を有し、元々は豊臣恩顧の外様大名だった為、関が原以後も度々幕府から圧力を掛けられ危機が訪れましたが、政重によって助けられその功により2万石が加増され5万石となりました。政重にはさらに5万石が加増するとの打診がありましたが、硬く固辞した為その代りとして「村雨の壺」を賜り何時しか「五万石の壺」と呼ばれ家宝となっています。

父親である正信の遺訓として「過分の所領は身を滅ぼす」を守った政重でしたが、兄で幕政で大きな影響力を持った本多正純は15万5千石を領した為、政敵を数多く抱え11か条の罪状嫌疑を突きつけられ失脚しています。前田家には1万石以上の家臣が8家も存在で「加賀八家」として藩政を担いましたが、本多家は5万石で加賀八家筆頭にあり大きな影響力がありました。

その後も政長−政敏−政質−政昌−政行−政成−政礼−政和−政通−政均−政以と加賀藩の要職を歴任し明治維新を迎えています。大乗寺(金沢市)は加賀八家本多家の菩提寺で政重により本多家下屋敷の隣接地であるる金沢市本多町に移転し寛文11年(1671)には2代本多政長が月舟宗胡を招いて住職としています。大乗寺の境内には本多家の霊廟が設けられ金沢市指定史跡に指定されています。

大乗寺:写真
大乗寺 大乗寺 大乗寺 大乗寺



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