【 概 要 】−畠山義元は畠山義統の嫡男として生まれ明応6年(1497)、義統の死に伴い4代当主となり能登守護職に就任しています。明応8年(1499)には畠山義元が気多大社の社領の寄進するなど領内経営の実績があるものの明応9年(1500)、能登国守護代遊佐統秀の画策により七尾城を追われ、弟である畠山慶致が守護職に擁立されています。畠山義統は元々、京都に居を構え能登国に在した遊佐統秀が実務を取り仕切っていましたが、応仁の乱に与した西軍の敗北により能登国に戻り権勢を発揮した事で、遊佐家の間に軋轢が生じたとされます。畠山義元が家督を継ぐとその関係がさらに悪化し、慶致との兄弟対立に介入し勝利した事で慶致政権下では重要な地位を保持しています。
永正3年(1506)、当時の管領細川政元の画策で能登国内で一揆が頻発し、その収拾を図る為義元と慶致は協力して事をあたり、その条件として再び義元を守護職に復権させ、その後継として慶致の嫡男義総を指名するという約定を取り決めました。永正5年(1509)に足利義稙が将軍職に復権すると側近の1人として畠山義元は京都に上洛し幕政でも大きな影響力を持つようになり、能登では養子となった義総が政務を行う二元政治が確立しています。
永正10年(1513)になると能登国で再び一揆が発生した為、畠山義元は能登に戻り義総と協力して平定に尽力し不穏分子は概ね掃討、領内の地位もようやく安定します。永正12年(1515)に造営された能生白山神社(新潟県糸魚川市能生)の本殿の軒札には寄進人筆頭に畠山義元の名が見られる事から越後国守護上杉家とも良好な外交関係を結んでいた事が窺えます。永正12年(1515)に死去、戒名「興徳寺殿久峰徳昌大居士」、遺骸は菩提寺である總持寺末寺の興徳寺(鳳至郡三井保:現在の輪島市)に葬られました。その後、興徳寺は廃寺となった為、龍門寺(七尾市)に吸収、多くの遺品が龍門寺に引き継がれました。
|