【 概 要 】−畠山義慶は天文23年(1554)に能登守護畠山義綱の嫡男として生まれました。永禄9年(1566)、形式上は畠山家の重臣だった長続連、遊佐続光、八代俊盛などが反乱を起こし、祖父である畠山義続、父親である畠山義綱を七尾城(石川県七尾市)から追放、両氏は縁戚である六角氏を頼り近江国(現在の滋賀県)に逃れました(永禄九年の政変)。理由は良く判りませんが義慶は七尾城に留まっており、幼少だった事から上記の重臣達の傀儡として能登守護に擁立しています。永禄11年(1568)には義綱が織田信長の力を借り七尾城奪還を試みており、形式上は親子対決した構図となっています。
義慶が青年期になると実権は遊佐続光、長続連、温井景隆が握っていたものの年寄衆は一新され、対外的な対策として修理大夫に任ぜられています。修理大夫は名目上は朝廷の内裏の修理造営を掌る役職で、時代が下がると非公式で自称する事も出来た為、形骸化した名誉職として名乗る大名も多く、畠山義総や畠山義綱も任ぜられています。
当時の能登国は重臣達による重臣寡占体制で運営されていたものの、潜在的に畠山本家を慕う国人領主も多く傀儡ながら義慶を余りにも軽視した扱いを続けると反乱に繋がる恐れもあった為、融和政策の一環だったと思われます。天正元年(1573)には気多大社(石川県羽咋市)の摂社若宮神社と白山神社の本殿を義慶名で造営したのも能登国内外に義慶を大事に扱っている事をアピールする要素を強く感じる事象です。天正2年(1574)死去(暗殺説有)、享年20歳、戒名:興性寺殿桂岳徳林大禅定門。
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