【 概 要 】−前田利直は寛文12年(1672)、大聖寺藩2代藩主前田利明と慈眼院(勢幾:本多忠義の娘)との子供として生まれました。幼少の頃から5代将軍徳川綱吉の側近として仕え、元禄4年(1691)には外様大名としては異例の奥詰(綱吉の時にだけ設置された役職で、隔日交代で所に伺候し綱吉の諮問に応じた)となっています。元禄5年(1692)、利明が死去すると大聖寺前田家の家督を継ぎ、大聖寺藩3代藩主に就任、その際、弟である前田利昌に1万石分知して大聖寺新田藩が立藩しています。利直は徳川綱吉の側近だった事から在任期間の殆どが江戸城詰で、参勤交代は僅か4回しか行われていませんでした。江戸詰が長いと家臣に対しての費用も嵩み、江戸藩邸が火事により焼失、さらに藩政では家臣団との対立が続き財政が逼迫しています。
宝永6年(1709)、利直は綱吉の死去に伴い奥詰を解任、さらに綱吉の葬儀の中宮使饗応役を命じられた前田利昌が日頃から仲が悪かった織田秀親(柳本藩主)が大事な奉書を見せなかった事から寛永寺吉祥院の宿坊で刺殺に及び切腹、大聖寺新田藩は廃藩となっています。宝永7年(1711)死去、戒名:円通院悟性義聞大居士、大聖寺前田家の菩提寺である実性院に墓碑が建立されています。
前田利直の大聖寺藩の実績は、宝永元年(1704)に前田家の遠祖菅原道真の御霊を勧請し天満神社を創建、宝永6年(1709)には大聖寺藩祖前田利治の御霊を勧請し松島神社を創建しています(松島神社は明治時代に入り江沼神社となり、天満神社は明治時代に一旦那谷寺に遷ったものの、その後江沼神社に合祀されています)。宝永6年(1709)には大聖川沿いに別邸として長流亭(国指定文化財)を建設、稲荷神社(石川県加賀市大聖寺荻生町)の社殿(拝殿・本殿)を造営、菅生石部神社に絹本著色天神画像(伝土佐光信筆:加賀市指定文化財)を奉納しています。
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