前田吉徳

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前田吉徳(總持寺祖院)
【 概 略 】−前田吉徳は元禄3年(1690)、加賀藩4代藩主前田綱紀と町姫(預玄院:三田村氏の娘)との子供として生まれました。享保8年(1723)綱紀の隠居に伴い前田家の家督を継ぎ、加賀藩5代藩主に就任しています。吉徳は家臣である大槻伝蔵朝元を重用し藩政改革を断行し、質素倹約、藩費の節減,、新税の制定、上方の豪商から借銀調達、家臣の家格改変、家臣の借知、米相場投機の改革などを行い大きな成果を得ています。一方、譜代の家臣を藩政から排斥し伝蔵など吉徳の側近で固めた事から家臣内の対立感情が生まれています(吉徳が死去すると家臣の対立が表面化し「加賀騒動」と呼ばれる御家騒動にまで発展し大槻伝蔵は自刃に追い込まれています)。延享2年(1745)死去、戒名:護國院殿佛鑑法性大居士、前田家の墓域である野田山に墓碑が建立されています。

前田吉徳は社寺の保護も行い、享保17年(1732)には日吉神社の創建千年大祭に上使を派遣、寛保3年(1743)には大槻伝蔵朝元に命じ總持寺祖院(石川県輪島市門前町)の経蔵(石川県指定文化財)を造営、吉徳の側室である実成院が全性寺(石川県金沢市)を帰依しています。享保11年(1726)頃には兼六園の蓮池庭畔に設けられた蓮池御亭(現在の時雨亭)を規模を縮小する形で改修し、月見や紅葉、茶会などで利用したようです。吉徳は湯涌温泉を愛していたようで、享保12年(1727)に体に痛みを感じた際には湯涌温泉の石臼から湧き出た源泉を10度湯汲を行い、金沢城に取り寄せ飲湯し平癒したとされます。

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