大聖寺城

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概要・歴史・観光・見所
大聖寺城(加賀市)概要: 大聖寺城の築城年は不詳ですが、鎌倉時代に大聖寺城狩野氏の居城となっていました。建武2年(1335)、加賀、能登、越中3万の兵を束ねた名越時兼を狩野氏が大聖寺城にて迎え撃ち見事撃退しています。室町時代に一向一揆の軍事的拠点として位置づけられ何度も攻防戦が繰り広げられました。天正3年(1575)織田信長の加賀侵攻により大聖寺城は信長の支配下に入り、家臣である柴田勝家が城の修復が命ぜられています。天正8年(1580)一向一揆の拠点の1つ金沢御堂(現在の金沢城)を勝家が攻略すると大聖寺城には勝家の与力である拝郷家嘉が城主として入ります。天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長が死去すると跡目争いで羽柴秀吉と柴田勝家の対立が激化、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れ、家嘉は退却する際に福島正則に柳ヶ瀬にて討ち取られました。

大聖寺城周辺は秀吉に組した丹羽長秀に与えられ、大聖寺城には長秀の与力である溝口秀勝が4万4千石で配されます。天正13年(1585)に長秀が死去すると堀秀政が領主となりますが秀勝は引き続き大聖寺城を任されます。慶長3年(1598)に秀政が春日山城(新潟県上越市)に移封すると秀勝も新発田城(新潟県新発田市)に移されました。その後、小早川秀秋の家臣山口宗永が6万3千石で城主となりますが、慶長5年(1600)の関が原の戦いで西軍に付いた為、東軍に付いた前田利長に攻められ大聖寺城は落城しました(山口宗永は自刃、菩提寺である全昌寺には供養塔が建立されています)。

江戸時代に入ると加賀藩に組み込まれますが元和元年(1615)に一国一城令により廃城、寛永16年(1639)加賀藩から7万石を分地された前田利治が大聖寺藩を立藩し旧城跡の低地部分に陣屋を設けています。現在でも大聖寺城の跡地は本丸、二の丸、三の丸、東丸、馬洗池などの郭の形状や土塁、空堀などの遺構が残され、貴重な事から昭和35年(1960)に加賀市指定史跡に指定されています。又、陣屋の庭園は江沼神社の庭園として、藩主別邸は長流亭として現存し当時の繁栄が窺えます。

大聖寺城(土塁・郭):写真

大聖寺城
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