気多大社

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概要・歴史・観光・見所

気多大社(羽咋市)概要: 気多大社は石川県羽咋市寺家町に鎮座している神社です。気多大社の創建は不詳ですが、伝承によると孝元天皇の御代(紀元前214年〜紀元前158年)、大己貴命(大国主命)が出雲から300余名の神々を率いて海路を開き船で七尾小丸山に入ると、当地に蔓延った怪鳥、大蛇を退けて能登を開拓しました。

崇神天皇の御代(紀元前97年〜紀元前30年)に能登を開発した大己貴命(大国主命)を守護神として社殿が造営され気多大社が創建しました。

又、当初は気多本宮(七尾市:能登生国玉比古神社)の境内に鎮座し崇神天皇の御代に現在地に遷座したとも(現在でも例祭では気多大社と能登生国玉比古神社の間を神輿渡御が行われ、現在地に遷座した故事を倣っているとも云われています)。

又、元々は地元神である気多神が祀られていたが朝廷が能登半島を重要視した為、大己貴命を祀るようになったとも言われています。

気多大社(石川県羽咋市)何時頃から発生したのかは明確な記録が無く、「気多神社縁起」や「気多社島廻縁起」、「気多社祭儀録」などの古文書にはそれぞれ異なる由緒が記されています。

由緒の多くが気多大社の祭神である大己貴命(大国主命)の英雄譚ですが、元々は日本海側を中心に信仰の広がりがある事や六国史で「気太神」や「気多大神」などと記載されている事から元々は地主神と思われる気多神を祭る神社だったものが、中央に組み込まれるようになり次第に天皇家の縁のある大己貴命(大国主命)が祭られるようになったとも考えられます。

歴史が感じられる気多大社の境内
歴史が感じられる気多大社の境内

古代の境内周辺は羽咋国造の支配地で、羽咋国造一族の墳墓と思われる古墳が点在、祖神が祭られている羽咋神社には気多大社と似たような由緒が伝えられる事からも関係性が興味深いところです。

又、石川県七尾市に鎮座する能登生国玉比古神社の社伝によると、崇神天皇の御代に能登生国玉比古神社の祭神の分霊が勧請され気多大社が創建され、別称として気多本宮と呼ばれているとし、例祭の平国祭では能登生国玉比古神社の祭神が気多大社まで渡御する神事が行われます。

気多大社の記録での初見は「万葉集」で、天平20年(748)に越中国の国司として当社を参拝した大伴家持(奈良時代の貴族、歌人、三十六歌仙の一人、中納言)が詠った「志雄路から 直越え来れば 羽咋の海 朝なぎしたり 船楫もがも しをぢから ただこえくれば はくひのうみ あさなぎしたり ふなかぢもがも」の歌が掲載され、「続日本書紀」には神護景雲2年(768)に封戸20戸・田2町が安堵された事が記録されています。

気多大社は朝廷から崇敬され六国史の1つ「続日本紀」によると延暦3年(784)には正三位、「日本文徳天皇実録」によると嘉承3年(850)に従二位、仁寿3年(853)に正二位勲一等、「日本三代実録」によると貞観元年(859)に従一位勲一等に列しました。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では加賀国、能登国唯一の名神大社に列し能登国一ノ宮として広く信仰を集めました。

当初は越中国司大伴家持が参拝に訪れている事からも越中国の一宮だったとされ、天平宝字元年(757)に能登国が越中国から分立すると能登国の一宮になったと推定されています。

スピリチュアルな雰囲気がある気多大社の本殿
スピリチュアルな雰囲気がある気多大社の本殿

気多大社は平安時代後期になると神仏習合し斉衡2年(855)には神宮寺となった亀鶴蓬莱山正覚院の前身となる寺院が「気多太神宮寺」に寺号を改め、その他にも長福院、地蔵院、薬師院が別当寺院として祭祀を司りました(諸説あり、養老年間:717〜724年、泰澄大師が伊勢神宮参拝時の御告げを受け気多大社の神宮寺を創建したとも)。

気多大社は歴代の為政者や領主からも崇敬され建保5年(1217)には源実朝が社領11町を寄進した他、建武年間(1334〜1336年)には後醍醐天皇が社殿を改修、その後は能登国守護職で七尾城の城主の畠山氏(明応8年:1499年、畠山義元が社領の寄進、永禄5年1562年、正親町天皇の勅許により畠山義綱本殿を造営、天正元年:1573年、畠山義慶が若宮神社と白山神社の社殿を造営)、戦国時代に畠山氏が没落すると上杉謙信、菅屋長頼(織田信長の側近)、土肥親真末森城の城主)が篤く庇護しています。室町時代末期には980俵と56貫余の社領を有していました。

現在の気多大社の摂社若宮神社本殿は当時のもので一間社流造、檜皮葺、室町時代末期の神社本殿建築の遺構として貴重な存在で昭和25年(1950)に国指定重要文化財に指定されています。

江戸時代に入ると加賀藩(藩庁:金沢城)主前田家(天正10年:1582年、前田利家300俵を寄進、慶長5年:1600年、初代藩主前田利長が社領200石を安堵、明暦3年:1657年に2代藩主前田利常が社領150石を加増、合計350石が安堵。)が崇敬庇護し、その都度社殿の造営や改修が行われ現在境内に見られる社殿の殆どが当時のものとされます。

気多大社:上空画像

気多大社は斉衡2年(855)に神宮寺が置かれると神仏混合し常住僧が置かれていましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式を廃し神社として独立、明治4年(1871)には国幣中社、大正4年(1915)には国幣大社、戦後は別表神社に列しています。

境内に隣接する正覚院は旧気多大社神宮寺の一つで、神仏分離令後に本地仏だった木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)や八咫の神鏡などが遷されています。気多大社は千葉県の香取神宮、茨城県の鹿島神宮、福井県の気比神宮と共に日本4社の1つに数えられています。

気多大社の神門(国指定重要文化財)は天正12年(1584)に造営されたもので、切妻、桧皮葺、一間一戸、四脚門。随神門(石川県指定有形文化財)は天明7年(1787)に加賀藩9代藩主前田重教が隠居後に10代藩主前田治脩に命じて造営されたもので、切妻、桟瓦葺、三間一戸、八脚単層門、内部に随神安置、神仏習合の名残が感じられます。

境内背後は「入らずの森」と呼ばれる不思議な不可侵聖地があります。聖域だった事から古木大木が多く、植生も暖地性常緑広葉樹林を中心に多種多様で学術的にも価値が高く大変貴重な事から国指定天然記念物に指定されています。

気多大社の文化財
・本殿-天明7年-三間社流造,檜皮葺,外壁は素木板張-国指定重要文化財
拝殿-承応3年-入母屋,妻入,檜皮葺,方3間,外壁は素木板張-国指定重要文化財
・神門-天正12年-切妻,檜皮葺,一間一戸,四脚門-国指定重要文化財
・摂社白山神社本殿-天明7年-一間社流造,檜皮葺,素木造-国指定重要文化財
・摂社若宮神社本殿-永禄12年-一間社流造,檜皮葺,素木造-国指定重要文化財
・気多大社社叢(入らずの森:暖地性常緑広葉樹林,不可侵聖地)-国指定天然記念物
・神庫-天明7年-校倉造,檜皮葺,方一間,桁行1間,梁間1間-石川県指定有形文化財
・随神門-天明7年-切妻,桟瓦葺,三間一戸,八脚単層門-石川県指定有形文化財

気多大社:周辺駐車場マップ

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-石川県-出版元:株式会社人文社
・ 現地案内板


気多大社:ストリートビュー

気多大社:社殿・境内・写真

気多大社駐車場から見た石燈篭と歴史が感じられる神門
[ 付近地図: 石川県羽咋市 ]・[ 羽咋市:歴史・観光・見所 ]
気多大社大鳥居は海岸の近くに設けられています 気多大社境内正面の木製鳥居と石造社号標 気多大社手水舎のこけら葺き屋根と手水鉢 気多大社参道石段から仰ぎ見る神門
気多大社神門から見える拝殿 気多大社拝殿内部に見える提灯 気多大社社殿(拝殿・本殿)右斜め前方画像 気多大社本殿と幣殿と境内社である若宮神社
気多大社玉垣越に見える本殿と幣殿 気多大社玉垣越に見える若宮神社 気多大社境内社である白山神社 気多大社境内背後に建立されている校倉造の神庫


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