能登生国玉比古神社(七尾市)概要: 能登生国玉比古神社は石川県七尾市所口町に鎮座している神社です。能登生国玉比古神社の創建は不詳ですが孝元天皇(第8代天皇・在位:紀元前214年〜紀元前158年)の時代に大己貴命を祭ったのが始まりと伝えられています。
社伝によると、大己貴命が出雲国(島根県)から因幡国気多崎(鳥取県鳥取市白兎)に至り八上比唐ニ婚姻し、その後、鹿と亀の霊獣に乗って能登半島の府中の浦(石川県七尾市府中)にたどり着きました。
その際、大己貴命は素戔嗚尊と稲田姫の化身である老夫婦に出迎えられ、様々な料理などのもてなしを受けて、この地に留まり住民を守って欲しいと懇願されました。当時の能登国には大鷲が巣食い大きな被害を与えていた為、大己貴命がそれを退治すると住民達は皆感謝し、孝元天皇の時代に社を設けて祭祀するようになりました。
崇神天皇の御代、能登国鹿島嶋路の湖水(現在の金丸の湖水)に毒蛇が住み着き住民達に害を及ぼすようになると、能登生国玉比古神社に祈願し見事退治する事が出来ました。住民達は神意に感謝し羽咋郡竹津浦に分霊を勧請し現在の気多大社が創建、以来、能登生国玉比古神社は「気多本宮」とも呼ばれるようになっています。
気多本宮とも呼ばれる能登生国玉比古神社の境内
気多大社は能登国に鎮座している神社の中で最高位である能登国一之宮である事から当社もその本宮として格式が高く、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載され能登国総鎮守として広く信仰されています(石川県鹿島郡中能登町金丸に鎮座している能登生国玉比古神社も論社のひとつとされます)。
能登生国玉比古神社は歴代領主からも崇敬庇護され、建武元年(1334)には中院少将定清が社殿を改修し、源頼朝から社領を安堵され、弘治3年(1557)には能登国守護職畠山義綱により社殿が大改築されています。
天正年間(1573〜1593年)に上杉謙信(春日山城の城主)の能登侵攻の兵火により畠山氏の居城である七尾城(松尾城)は落城、畠山氏縁の社寺も悉く焼き討ちとなり能登生国玉比古神社も焼失しています。
天正9年(1581)、織田信長(安土城の城主)により能登国が掌握されると、家臣である前田利家が七尾城に入り、領内の整備が行われ能登生国玉比古神社も再興が図られ、20俵が寄進されました。
歴史が感じられる能登生国玉比古神社の拝殿
当時は所口の古城山(:石川県七尾市馬出町)に鎮座していましたが、天正17年(1589)に利家は七尾城を廃城にして能登生国玉比古神社の境内地に新たな七尾城(小丸山城)を築城する事となり、現在地に遷座し社殿が造営されています。
能登生国玉比古神社は古くから神仏習合し、別当寺院として木閣山所口寺が祭祀を司り、気多本宮地蔵大権現などと呼ばれていましたが明治時代の神仏分離令により廃寺となり旧社号である「能登生国玉比古神社」に復して神社として独立、明治5年(1872)に県社に列し、明治39年(1906)に神饌幣帛料供進神社に指定されています。
現在でも能登生国玉比古神社は気多大社との関係が深く、気多大社の例祭である平国祭(毎年3月21日・別称:おいで祭)には能登生国玉比古神社から気多大社に分霊が勧請された故事に因み、当社から気多大社まで約300キロの行程を5泊6日で祭神が渡御する神事が行われます。
能登生国玉比古神社随神門(神社山門)は入母屋、銅板葺、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚単層門、外壁は真壁造り板張り、左右内部に随神像が安置されています。拝殿は木造平屋建て、入母屋(正面千鳥破風付)、銅板葺、平入、正面3間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り、向拝には精緻な彫刻が施されています。本殿は入母屋、銅板葺、間口二間一尺、奥行一間二尺。祭神:大己貴神。配祀:素戔嗚尊、奇稻田姫命。
能登生国玉比古神社:上空画像
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