加賀市(歴史)概要: 加賀市は柴山出村遺跡で見られるように縄文時代から比較的開けていた地域で、その後も法皇山横穴古墳や、狐山古墳などから数多くの良好な副葬品が発掘され中央との繋がりが強かったと思われています。
奈良時代に入ると江沼臣が江沼郡一帯を支配し完全に山政権下に組み込まれ、平安時代に入ると江沼郡の惣郡司職となった大江氏が支配し同時に有力寺院による荘園の開発も行われました。
寿永2年(1182)、倶利伽羅峠の戦いで敗北した平家は安宅・篠原で陣形を整え、この地で木曽義仲の軍勢を迎え撃った篠原の戦いが起ります。この戦いで平家は壊滅的な被害を被り将兵は4・5旗を残して全て死傷し、兵卒は方々に霧散したと伝えられています。
鎌倉時代に入ると狩野氏が大聖寺地区の地頭に就任し大聖寺城を築城、又、白山五院の1つ大聖寺の門前町としても繁栄しました。加賀市は加賀国と越前国との境界線に接していた為、数多くの騒乱に巻き込まれ大聖寺城も度々戦場となり次第に一向一揆の拠点の1つにもなりました。
織田信長の加賀侵攻後は戸次広正や堀江景忠、佐久間盛政、拝郷家嘉が大聖寺城の城主となり、豊臣政権下では溝口秀勝が4万4千石の領主となっています。
関ヶ原の戦いでは当時の城主山口宗永が西軍に与した為、東軍方の前田家との間で激しい戦いがくり広げられました。
江戸時代に入ると加賀藩に属しますが寛永16年(1639)に前田利治が7万石を分知され大聖寺藩を立藩、その後新田開発などが進み文政4年(1821)には10万石に高直しを行っています。
しかし大聖寺前田家は城主格ではなかった為、陣屋主としては全国最大の石高となりました。その間、文化的な振興も図られ九谷焼や山中漆器などの再興や開発、山中温泉や山代温泉なども多くの湯治客が訪れました。又、北前船による交易も活発になり特に加賀市には橋立、塩屋、瀬越の3つの良湊を擁し多くの大船主を輩出しました。
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