加賀市橋立町(歴史)概要: 加賀橋立町の開村は景行天皇17年(267)石巣宿弥が開いたと伝えられています。宝亀元年(770)には14軒の家屋があり46人の住民が住んでいたそうです。寛永16年(1639)に加賀藩2代藩主前田利常(前田家3代目当主)が隠居する際に3男前田利治に7万石に分知して大聖寺藩が立藩すると橋立町は藩庁が置かれた大聖寺陣屋の外港として重要視されるようになりました。
寛文11年(1671)に河村瑞賢が西廻航路を開削すると加賀橋立も北前船の恩恵に預かり、沖に停泊した北前船に港が利用出来る程度の小船で行き来して物資の荷揚げや荷降ろしが行われ多くの物資が運び込まれるようになります。
物流が盛んになるにつれ多くの船主を輩出するようになり寛政8年(1796)に編纂された「船道定法之記」によると当時の橋立町には42人の船主が名を連ね100隻を超える北前船を所持していたと記されています。経済的にも豊かになった橋立町には西出・久保・酒谷・黒田・西谷といった船主達が財を成し、困窮していた大聖寺藩の財政を助けています。
特に幕末では財政が逼迫した上、幕府の命で海防の整備が課せられた為、橋立町の久保彦兵衛や西出孫左衛門などの船主達は多額な金銭を藩に上納しその功績から名字帯刀を認められ、屋敷内には豪勢で格式の高い藩主御成部屋が建てられたそうです。
明治に入ると北海道にまで進出しさらに大きな富を得ましたが明治後期以降北前船の衰退と共に衰微し、大正時代には最もと栄えている村として紹介されるも、衰退が加速し多くの船主達も加賀橋立を離れ屋敷だけが残されました。現在は最盛期の賑わいがありませんが、明治時代に建てられた船主達の屋敷が点在し独特の町並みが残されていす。
町並みの特徴は自然の地形を利用して敷地割りが行われた為、直線的な道は少なく、入り組んだ路地や坂、階段なども目立っています。現在も当時の船主達の屋敷が点在し、平成18年(2006)に種別「船主集落」、東西約680m、南北約550m、面積約11.0haが名称「加賀市加賀橋立伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
加賀橋立の家屋の多くは赤瓦と、船の古材を利用した下見板張りの外壁、板塀、福井県福井市の足羽山で産出される笏谷石で積み上げられた塀や階段によって構成され、殆どの建物が明治5年(1872)に大火後に再建されたものです。
そのような中、忠谷家住宅は天保年間(1830〜1843年)に建てられたもので、木造平屋建て一部2階建て、切妻、桟瓦葺き、妻入り、桁行19.5m、梁間11.3m、江戸時代後期の北前船の船主住宅の遺構として貴重な事から屋敷内にある主屋、新座敷、背戸蔵、新蔵の4棟が平成21年(2009)に国指定重要文化財に指定されています。
同じ石川県内で船主集落である輪島市黒島地区では道路に面し、隣の家屋とも密着している町屋建築風の建物が多いですが加賀橋立では農家や武家屋敷のように敷地に余裕がある屋敷が多く見られます。
加賀市橋立町:上空画像
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