小松天満宮(歴史)概要: 小松天満宮は石川県小松市天神町に鎮座している神社です。小松天満宮の創建は明暦3年(1657)、加賀藩2代藩主前田利常(前田家3代目当主)が隠居城として小松城に入城すると、城の鬼門にあたるこの地に前田家の遠祖菅原道真の分霊を勧請したのが始まりと伝えらています。
以来、加賀藩歴代藩主から崇敬庇護され社領100石が安堵されるなど社運も隆盛しています。加賀藩前田家は菅原道真の後裔を自称した為、天神(菅原道真)を篤く信仰しました。
前田家は江戸時代に成立した「寛永諸家系図伝」によると「菅丞相之後胤也、菅丞相在筑紫生二子、兄曰前田、弟曰原田、其後前田氏来尾州為住人」とあり、訳すと、菅原道真が太宰府に流され後に2人の子供を儲け、兄は前田、弟が原田姓を名乗りました。その後、前田氏は尾張の住民になったとされます。
又、明治時代後期に編纂された「好古類纂」の「菅公事歴及系譜」や江戸時代に編纂された「前田家譜」や「前田御家譜」には菅原道真の後裔が前田家となる系図が記載されています。
一方、前田家が尾張時代には藤原姓だったとされ、豊人秀吉から信任を得ると羽柴姓や豊臣姓を賜り、江戸時代に入り徳川家と婚姻関係を結ぶと松平姓(源氏)を賜り、菅原姓を主張するようになったのは寛永年間(1624〜1645年)頃とされ上記の「寛永諸家系図伝」が編纂されたとしています。小松天満宮が創建されるのも、前田利常が菅原姓を主張してからで、何らかな意図があったと思われます。
前田利常の隠居城である小松城の城域が金沢城(石川県金沢市)を北東にするように計画されている事から小松城−小松天満宮−金沢城が北東ライン上に並んでいます。
守山城(富山県高岡市)も同じライン上にあるとされますが築城年からすると偶然性が強いと言えますが、前田家縁の城郭が並んでいる事から重要視されたと思われます。
又、冬至の日の出が神門を通して本殿に達し、創建日の日の出は東参道から本殿に達するように計画されています。別当には北野天満宮(京都府京都市上京区)から能順(連歌師)を招き、神具は全て北野天満宮を模し、境内は北野天満宮の四分の一に縮小した形式をとっています。
元禄2年(1689)8月6日には松尾芭蕉が生駒万子の勧めで能順を訪ねて小松天満宮を訪れ、境内には「あかあかと日はつれなくも秋の風」の芭蕉句碑が建立されています。
小松天満宮社殿の造営には那谷寺(石川県小松市)や妙成寺(石川県羽咋市)、瑞龍寺(富山県高岡市)を手懸けた加賀藩御用大工、山上善右衛門嘉広が棟梁を担当し、その後も社殿の営繕や祭祀の経営など藩費で賄い社運は隆盛します。
創建当時から神仏習合し別当寺院として梅林院が祭祀を司ってきましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が配され梅林院も茶室に改造され毎月茶会が開かれたそうです。祭神:菅原道真公、前田利常公、白太夫神、応神天皇。
現在も創建当時に建てられた神門(四脚門、切妻、銅板葺、一間一戸、木部朱塗り)をはじめ、拝殿(木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行7間、梁間2間、正面千鳥破風、3間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造板張り)、石の間(木造平屋建て、両下造、銅板葺、桁行2間、梁間3間、外壁は真壁造板張り)、幣殿(切妻、銅板葺、桁行2間、梁間3間、外壁は真壁造板張り)、本殿(三間社入母屋造、桁行3間、梁間2間、銅板葺、外壁は真壁造板張り)が残り江戸時代初期の神社建築の特色を残しています。
小松天満宮社殿は江戸時代初期の社殿建築の遺構として大変貴重な事から、昭和34年(1961)に国指定重要文化財に指定されています。
小松天満宮の社宝である花鳥沈金硯箱と琴棋書画沈金文台は、室町時代に制作し能順が霊元天皇(第112代天皇・在位:寛文3年:1633年〜貞享4年:1687年)から下賜され、小松天満宮に持ち込んだと伝えられるものです。
花鳥沈金硯箱は縦24.5p、横22.8p、高さ6.2p、全面黒漆地沈金加飾。琴棋書画沈金文台は縦33.7p、横58.4p、高さ6.2p、黒漆仕上げ、中国から鎗金の技術が持ち込まれた初期の大変貴重な作品である事から昭和63年(1988)に国指定重要文化財に指定されています。
小松天満宮の文化財
・ 小松天満宮神門−明暦3年−国指定重要文化財
・ 小松天満宮拝殿・石の間・幣殿・本殿−明暦3年−国指定重要文化財
・ 十五重の石塔−江戸初期−坪野石製、高さ724cm−小松市指定文化財
・ 琴棋書画沈金台・花鳥沈金硯箱−室町時代−国指定重要文化財
・ 三彩金欄手龍文双耳瓶−石川県指定文化財
・ 小松天満宮連歌書(15点)−江戸時代−石川県指定文化財
小松天満宮:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 郷土資料事典-ふるさとの文化遺産-石川県-出版元:株式会社人文社
・ 現地案内板-小松天満宮
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