七尾市(歴史)概要: 七尾市は古くから能登半島の政治、経済、軍事の中心地として発展した地域で養老2年(718)と天平宝字元年(757)に能登国が立国すると国府が置かれたました。(正確な位置は確定されておらず、七尾市の府中・古府・国下が上げられています)。
承和10年(843)には定額寺の格式を持った大興寺が国分寺に定められ天元3年(980)には和名抄を編纂した源順が国守として赴任し、能登国の有力神社43社の祭神の分霊を勧請合祀した能登国総社を創建しています。
室町時代に入ると幕府の管領職にあった畠山氏が能登守護職となり満家の代に分知される形で弟の満慶が能登国の在国守護として館を構えました。義元の代になると本格的に七尾城やその麓にある城下町が整備され中央からも応仁の乱の兵火を避け多くの文化人や貴族、僧侶などが集まり、七尾独自の文化圏が形成されるようになります。
天正5年(1577)上杉謙信の能登侵攻により要害堅固を誇っていた七尾城が落城し一時上杉領に入りますが、謙信の死により越後国に内紛が起り、織田信長の能登侵攻を許します。天正9年(1581)、信長の家臣である前田利家が能登国主となり新たに小丸山城を築き、天正11年(1582)に金沢城へ移りった後も重要性が強いことから前田一族が城主として勤めています。
江戸時代に入っても加賀藩に属し元和元年(1615)一国一城令により小丸山城が廃城になると大きく3つ区域に分けられ七尾市中心部には所口町奉行所、灘浦地区は土方領(後に鳥居家、水野家が領主となり最後は天領となりました。)、それ以外は能州郡奉行所が管理することになりました。
特に所口町奉行所は代官や小代官、足軽が配され小城下町として形勢され、七尾港の繁栄もあり当地方の行政、経済の中心地として発展しました。明治時代に入ると七尾県が成立し県庁が置かれましたが後に石川県に統合されました。
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