志賀町(歴史)概要: 志賀町の開発神は福岡の志賀島に鎮座する志賀海神社の祭神豊玉比当スで、奈豆美比盗_社(延喜式内社)に伝わる神輿渡御はこの地に漂着した時の様子を伝えるものと伝えられています。
平安時代に入ると当時は福良津又は福良泊と呼ばれた福良港が渤海国(満洲から朝鮮半島北部にかけて存在した国)との交易港となった事で朝廷から重要視され、延暦23年(804)には桓武天皇の勅命により渤海使節団を迎え入れる能登客殿が設置され江戸時代には北前船の寄港地として大いに賑わいました。
荘園開発も進み特に賀茂神社(京都)の荘園は広大だったとされ加茂神社の分霊も勧請されています。鎌倉時代に入ると幕府の御家人だった得田氏が地頭として赴任し周囲にも大きな影響力を与え、後に守護職となった吉見氏や畠山氏などに従属し江戸時代には加賀八家の1人長氏に仕えています。室町時代に入ると平氏が畠山氏に従属することで居城である末吉城周辺の支配を確立し畠山四家老の1人に数えられました。
天正5年(1577)、上杉謙信によって七尾城が落城し畠山氏が滅びると平氏は帰農し、江戸時代には大庄屋として天領となった13ヶ村を取りまとめる豪農となりました。
江戸時代に入ると加賀藩に属し(1部天領)、一時、前田家の預かりの身になっていたキリシタン大名高山右近の捨扶持だったとされ、マニラに追放され右近が死去すると孫の1人が密かに帰国し旧領である志賀町末吉に移り住んだと伝えられています。
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