・押野館が何時頃築かれたのかは判りませんが、加賀国守護職の富樫氏と関係が深く、建武2年に守護職に就任した富樫高家の弟である富樫家善が配されており、家善は「押野殿」と呼ばれていました。
家善は鎌倉時代末期に加賀国守護職だったと目されている富樫泰明の末子として生まれ、社寺の保護に勤め貞和2年には大乗寺の明峰素哲に田地五町と敷地を寄進しています。
発掘調査により14世紀から15世紀前半頃の珠洲焼や瀬戸焼の壷、鉄製の鋤先等が発見され、それ以降の時代のものが見られない事から長享2年に当時の加賀国守護職で富樫家21代当主である富樫政親が居城の高尾城を加賀一向一揆衆に襲撃され、自刃に追い込まれた際、押野館も命運を共にしたと思われます。
江戸時代の文化8年頃に加賀藩の藩士である湯浅玄斎が描いた「押野館跡図」によると東面49間(約88m)、南面56間(約102m)、西面87間(約158m)、北面27間(約49m)、東北面45間(約82m)の規模で、江戸時代までは土塁と思われる土盛も一度残っていた事が判ります。
又、発掘調査により館の周囲を規模の大きい堀で囲っていた事が確認され、内部からは掘立柱建物跡や竪穴状遺構、井戸跡等が発見されています。現在は館野小学校のグランドや宅地、田畑等となっており、目立った遺構は失われていますが、その一角を押野南公園として整備され案内板が設置されています。
又、押野館跡は弥生時代後期の集落跡であるタチナカ遺跡でもあり、27棟の竪穴住居跡や10棟の掘立柱建物跡等が発見されています。
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